憂鬱の正体

憂鬱というやっかいなもの
(憂鬱をやっかいものとみなす時点で
何かが根本的に間違っているのかもしれないけれども)
の正体を知る事によってのみ、唯一救われる。
真の癒しとは痛みを伴うもの。
少なくとも私はそう信じている。
そう言った試みで本と向きあうとき、
読むべき小説の数は随分限られて来るように思う。
もちろん読書ライフをそれだけには限る必要は全くないのだけど。
ダグラス・クープランドの『ライフ・アフター・ゴッド』を通読。
〈神なきあとの人生/世界〉というタイトルのこの本。
夜寝る前に少しずつ少しずつ読み進めて、
クライマックス徐々に言葉が研ぎ澄まされてゆき、
作者が本当に言いたい事がぎっしりと隙間なく詰まっていたように思う。
村上春樹の世界とも大いに通ずるものがある、
ダグラス・クープランドという人の世界は、
たぶん村上春樹よりもポップで、
それこそアンディ・ウォーホルの絵に近いものがある。
それが読みやすくもあって、少し物足りない部分でもある。
でもこの物足りない感じが、その時の時代の空気そのものを
象徴していたような気もするので、それがなくなってしまえば、
ちっともリアルに響いて来ないのかもしれない。
この本を読んでいる間、東京の友人を思い出していた。
ユニクロに就職して、数年後店長なったはいいけれど、
鬱病になって、辞めて、地元の市役所で公務員をしている。
そういう人って世の中に随分いるんだと思う。
病む人間がどんどん脱落して、それなりの場所に落ち着く。
そういうスパイラルに入っていって、付いてゆく自信も、
勇気も最初から皆無だった人間が私なのだけど、
本当にあの自分がかき消されてゆきそうになる恐怖心みたいなものは、
今でも忘れなれない。
とは言え、自分が頑張って保持しようとしている自分とは、
一体なんの役に立つのかと言えばよくわからないし、
ただ怠けたいだけなんじゃないかと自分を責めてみたりとか、
随分無駄なことをしていた気がする。
社会不適合とか適合とか、変な言葉まで入ってきて、
無意味な挫折感のようなものに苛まされていた。
全てが間違っているような気がしたし、
何も間違っていない気もした。
とにかく、混乱していたのだ。
そういう空気を見事に表しているのが
ダグラス・クープランドの書く作品だと思う。
混乱そのものがアートになる。
憂鬱や葛藤や絶望や孤独が表現になる。
そんな風にして人は人を知る。
知る事によって人は癒される。
世界の均衡が保てる。
結果、自殺が減る。
そういう事になりはしないだろうか。
そういうのって単純すぎる夢物語なのだろうか。
私はそういうことをかなり信じている人間であると、
今気が付いた。