瞑想その後

前回の記事は、10/4に書かれたものだ。
間違って消してしまったと思っていたのだけど、
消えていなかった。
なので、そのままアップした。


瞑想は最近ちゃんとやっていない。
人に会いに行ったり、新しい人と出会ったりしている。
漫画や映画を観る事が少なくなった。
今日は瞑想しようと思う。


瞑想をあまりしてないけれど、
「これ雑念だなー」というのを意識的に思ったりしている。
思考に酔っぱらっているというか、
そういう状態が常なのだなぁ、と感じている。


小さい頃から感じていた、
「この世界はなんなんだろう」
という疑問。
これが私の根っこのような気がしている。
みんな当たり前に受け入れているこの世界。
この世界は本当に謎。
という感覚を最近また思い出してきた。


お父さんと東山物産の鰻を食べに行った。
帰りに伊雑宮に寄った。
日本とユダヤの奥深い関係を感じている。
次の日は1人で二見の松下社と伊雑宮と佐美長神社に行った。
伊雑宮の奥にある石神のところがとても良かった。
人気もなくて、竹林で、かなりいい瞑想スポットだった。
また気が向いたら行こうと思う。


お酒が弱くなった。
あまり呑んだつもりはないのだけど二日酔いになった。
お酒はほどほどにしようと思う。
じゃないと次の日が駄目になる。


ただ俯瞰してみる。
あらゆることを受け入れる。
そういう強さが欲しい。


音楽は相変わらず聴いてる。

雑念

今日は瞑想時間を5分から10分に増やした。
昨日5分の瞑想が「早!」と感じたので。
10分でもあっという間。
時間って不思議。
しかし、私は相変わらず雑念が多い。
本当にどうでもいい事ばかり頭に浮かぶ。
で、「それって私と全然関係なくね?」
となって呆れる。
人生の無駄使いにも程がある。
10年前の自分と比べてみた。
私は10年前と比べて本質的に全然変わっていない。
無性に未来に不安になり焦っている。
でも10年前よりも焦っても無駄だし、
まだ来てもいない未来を不安がっても意味がない、
ということをよく知っている。
だからすぐに自分をなだめることができる。
すぐに忘れて不安になったり焦ったりするんだけども(笑)
10年経ちなにが変わったかというとそこぐらい。
あと白髪が少しでてきたことぐらいかもしれない。


愛している人がいるが、
これが愛なのか執着なのか依存なのか、
を見極めている。
どうして彼が必要なのか。
彼にとって私も必要か。
ということを時々おもう。
今のところはただ楽しめばよい。
そしてあまり深く考えない。
これ大事。


とにかく私はもっと時間と仲良くならなければならない。
そしてこんな風に自分の内面を表現しなくてはいけない。
そういう時間をたくさん持たなければいけない。
そういう人生の時期である。


新月

久しぶりにブログを書く。
今日は新月
最近興味があるのが瞑想。
10月1日とキリがいいし、新月だし、
で、ブログのタイトルも変更して、
日記を書いていこうかなと。
瞑想の中で見えたもの、気付いたこと、
などを細かに記していくのも面白いかなと。
でも、ほとんど前みたいに日々考えている事を、
つらつらと書いていくのだとおもう。
というか、暇なのです、最近。
前から暇なんだけども。
単純に書くモードになったという感じですかね。
そんなわけで相変わらず無秩序に私の人生は進んでいくのであります。


さて突然「瞑想」に興味を持った理由。
それについて書いておく。
先週の日曜日、村正という日本刀を桑名まで見に行った。
車に酔ってしまいグロッキーな状態であまりしっかり見ることが
出来なかったのだけど、日本刀ブームらしくて、
たくさんの人がいた。
次の日かな、急に「ちゃんとしなくちゃ」という、
妙な焦燥感がぐっと湧いてきて、瞑想に到達した。
順序よく説明すると、まず最初にピラティスに興味を持ち、
そこからマインドフルネスという概念に行き着き、
結局それは瞑想みたいなものだった、という流れ。
ピラティスも瞑想と同時に初めていこうと思っている。
とにかくこう、己の精神と身体に集中したい気持ちが、
村正をみた影響で高まったということだ。
村正すごいね。
そのままこの流れに委ねようということで、
現在に至るわけです。
いつまで続くかわからないけれど、
なるべく続けたいと思っている。
心の整理整頓。
ブログは私にとってそういう存在だ。


マインドフルネスの本をさっそく購入して一通り読んだところなのだけど、
その中で特に印象に残った部分を書いておく。
それは思考も感情も「私」ではないということ。
どちらも自分の中を通過していくものだし、
いつでも手放せるもの。
私はいかに日頃から自分の思考と感情に執着していたかと、
思い知らされた。
書くことは思考を言葉に変換することだ。
そこに自己表現があると信じていたのだけど、
実はそこに本当の「私」はいないらしいのだ。
では一体「私」はどこにいるのだろう?
そう考え出すと私はとても心が軽くなったし、
とても自由になれた気がしたのだ。
そして最も自分を感じるのは「瞑想」なのだ。
呼吸をしている「私」、手のひらに熱を感じている「私」
「私」はそこにある。
感じているこれが私だ。
人生を通じて最も関心があること、
それは「私とは何か?」
それなのである。
それしかないのだということを改めて知った。
「私」について「私」はきっとまだまだ知らない。
その答えのヒントみたいなものは、
きっと私が私に対してとことん誠実になって感じることからしか出てこない。
だったらそうしてみよう。
そう思った次第です。
まだまだ未熟な人間だけど、
「私」を通じて何かが見えてきたらいいと思う。
世界は果てしなく広いが、自分の内なる宇宙も果てしなく広いのだ。


締めくくりに、最近ぐっときた音楽を。
今まで聴いてきた日本語ラップの中で一番かっこいいかも、
と思ったけど、多分今の自分の気持ちとシンクロするのかも。
私もこんな風になりたい!
と切実に思わせてくれるそんな曲。

自分から手を伸ばした。
誰かに触れようとした。
それが正しいのかどうかわからない。
けれどそういうものがあるということは
幸せなことなのかもしれない。
人と生きていくということは
時々おそろしく不安に感じることもあるけれど、
私は私の時間を生きていて、
たとえ周りに誰もいなくなっても、
私は私の時間を生き続けるのだろうとおもい、
それは、切なくもあり、
安心出来ることでもあると思った。
ひどく何も出来ない自分に
時々苛立ちを覚えるけれど、
それでも私は私でしかなく、
世界は廻り続けている。
ふと
「私はどこへ行きたいのか」
と思う。
白昼夢にも似た、
曖昧なこの世界のありように、
私は幼い子供のように立ち尽くす。
黙ってその場を去る。
そんなことしか出来ていないのかもしれない。
子供のようにわんわんと泣き出すことができたら
どんなによいだろう。
ただドキドキすることを追いかける
子供であることができたらどんなに気楽だろう。
こんな風に言葉を吐き出すと、
思いもよらない何かが
ぞろぞろと
出て来る。
世界は組み立てられるようで、
組み立てることは出来ない。
そんな横柄なことが私はどうしてもできない。
現実は流れてゆく川で、
いつだって人間はそれを眺めることしかできないのだ。

mother

3月5日、母が亡くなった。
6日のAM3:00がジャスト満月だった。
5日の夜、家に帰ってきて空を見上げると朧月。
靄がかった綺麗なお月さま。
近所の竹林とよく似合っていた。
満月と竹なんてかぐや姫みたいだなー
と、ドキドキしてしまった。
きっとかぐや姫のときと同じ手順で、
お月さまが母を迎えに来たに違いない。
なんてニクい宇宙の演出なんだ、と思った。
母らしいとも思った。


ここのところ鰻が無性に食べたかった。
鰻は母の大好物だ。
鰻をさっそく買ってきてお供えした。
ついでに実家の庭の梅が咲きかけていたので、
つぼみがたくさんついてる枝を折って、
お母さんの近くに飾った。


火葬と葬儀のあった今日、
とてもよく晴れて、とても暖かった。
まぎれもなく今年最初の春だった。
昨日もその前の日も寒い雨だったのに。
またお母さんの仕業だと思った。


お母さんは自然をこよなく愛していたので、
きっとそういう自然の神様による、
自然な演出がなされたのだろうと思う。
本当にミラクルみたいな時間だった。


ただお母さんはよく病室で寒い寒いと言っていたので、
棺にドライアイスがたくさん入れられたのは、
かわいそうだった。
出血を止めるためらしい。
しょうがないけど、ドライアイス
寒そうでかわいそう。


お母さん。
たくさん病気して、たくさん痛い思いもして、
たくさん苦しい思いもして、
大変でしたね。
お母さんに優しい気持ちになれる時間が、
もっとあったらよかったのに、
なかなか出来ない馬鹿な娘でごめんね。
お母さんの理想の娘ではなかったね。
お母さんから素晴らしいものをたくさんもらったのに、
ちゃんと生かしきれてなくてごめんね。
これからもっと磨いていくね。


お母さんがこの世界からいなくなって、
すごく近くにいる気がしてるよ。
お母さんはお母さんが亡くなったとき、
寂しくて死んじゃいそうになってたけど、
私はなんていうか、
いつでもお母さんに会ってる気分になるよ。
お母さんがすぐ近くにいるって、
そんな気がしてるよ。
お母さんが生きてるときよりもずっと近いし優しくできる。
生きてるうちに優しくしとけって?笑
生きてるうちは人間は我欲とか、
なんかそういう部分が強調されてしまうみたい。
肉体から離れると、
多分すごく純粋にその人になれるんじゃないかって思うよ。
だからお母さんは肉体から離れて、肉体の苦しみから解放されて、
生き生きと10代の頃みたいに飛び跳ねてるんじゃないかって、
思ってます。
まぁ、お母さんは70歳を過ぎても10代みたいだったけどね。
私もそんな風に歳を重ねていけたらなぁ、と思ってます。
お母さんのお母さんとか、
お母さんのお父さんとか、
マイケルとかに会えてますか?
そっちはどんな感じなんだろう。
なんとなくお母さんのことを思うたび、
そっちの感じが伝わってくるので(今だけの魔法かしら?笑)
すごく安心してます。
マイケルの音楽を聴いてると天国みたいと思うので、
たぶんお母さんはそこに居るんだろうと思ってます。
若葉病院に転院してから、マイケルの曲をipodに大量に入れた
あの作戦は正解だったかしら?
死ぬことの恐れを少しでも軽減出来たかしら?
また私がそちらに行ったときに聞くね。
と、言っても私は結構死がこわくない方だと思ってて。
間際になると怖くなるのかなー?と思ったり。
人は一度「ああそういうことか」と思っても、
すぐ忘れて悩んで思い出しての繰り返しなので
嫌になりますね。
常に「ああそういうことか」の瞬間の連続だったらいいのに、
と思うのだけどなかなかうまくいきません。
修行が足りないのかしら。
でもお母さんの骨が近くにあると、
そちらに繋がりやすい気がするので安心です。
とても良いアイテムをゲットしました。
お母さんの骨は、一部を熊野灘の海に捲いたり、
日足のあの木の近くとかに埋めに行こうと考えたりしています。
いいでしょ?
ちょっといつになるかはまだ解らないけど、
今年中にはやる予定なのでお楽しみに。
さて、私の旅はまだまだ続きそうなので、
どうなっていくか見ててね。
私の勘ではこれ以上悪くなることは無さそうな気がする。
どうだろう。
お父さんにはさっき自伝を書くように薦めました。
書き上げたらお母さんと一緒に読みたいです。
想像以上にたくさん書いてしまいました。
結構色々たくさん言いたいことは出てくるものですね。
この感覚は久しぶりです。
私もそろそろ色々書いてみたいな、とは思うのですが、
どうでしょうか。
お母さんがこの世界からいなくなって、
この世界の情勢はどう変化していくのでしょうか。
結構わくわくしてます。
なんだかんだで生きてることは楽しいことなのかもしれません。
たくさん辛い思いもするんだけど。
辛過ぎてなんで生きてるのかしょっちゅう解らなくなるけど、
生きてることは素晴らしいことなのかもしれません。
とか言ってすぐ落ち込んだり、が私の癖です。
一向に治りません。
随分長くなってきて収拾がつかなくなってきたので、
そろそろ終わります。
あ、最後に。
お母さんの食事日記を見てて、
毎回「ごちそうさま、ありがとう」と書いてて、
ぐっときました。
そういうところがすごくお母さんぽくてよかったです。
お母さんの子供に産まれてきて良かったと思ってます。
産まれて来たことを恨む時期がたくさんあった未熟者ですみません。
これからはなんとか日々感謝でがんばりたいです。
そう生きてることは修行です。
押忍。
最後の最後に。
生きてることは素晴らしいは、
紛れもない真実として、
この曲を貼付けて今回は締めさせて頂きます。



ありがとう。
大好きなお母さん。
おつかれさまでした。

なまりいろの空の下で

私は学校なんて行かなければよかった、
と思っている。
そして大学なんて行かなければよかったし、
東京なんて行かなければよかった。
この街から出なければよかった。
だからと言ってこの街を愛しているわけではない。
むしろなぜこんな街に産まれてしまったんだろう、
という気持ちの方が強い。
それでも同じようにこの街に
居心地の悪さのようなものを感じている人達と、
友達になって、その感覚を共有出来るというのは、
ある種の一体感が産まれて心地のよいものである。


人生で「私が選んできた」と思っていた物事ことは、
実は私が選んでいないということに気付く。
いや、確かに私が選んだものでもある。
しかし頭の柔らかいうちから、
色々なことを叩き込まれ、
それが当たり前とされ、
私はそれを真っ白い気持ちで、
ひたすら受止めていただけに過ぎない、
という事に気付く。
最近そんなことばかり考えている。


だとしたら、私は何をすべきなのか。
したいのか。


ただ浮遊していたいのだ。
あらゆる面倒から解放されたい。
自分を知る為にあらゆる物事を
引き受けていた時期もあったけれど、
それが正しかったどうかは全く解らない。
もちろんその時は楽しかったのだろうけど、
今の私にはその価値を見出すことができない。


横隔膜の奥の奥の方に、
鉛がつまっているみたいに身体が重たい。
全く方向感覚が無くなった。
今どこにいるのかさえも掴めない。
腐りそうで腐らない果実みたいに、
熟した甘ったるい匂いが辺り一面に漂っている。
どうしようもない。
世界は灰色。
でもそれが普通なのかもしれない。
その世界を抱えながら、
新鮮な若葉みたいな朝露みたいな世界も、
きっとあるのだろう。
どこに居るかは、脳に分泌されるホルモンの影響だ。
私は今灰色。
次は何色だろう。

息をする

子供の頃は思いもしなかった。
人生がこんなにもややこしいものだなんて。
面倒臭いことや気持ち悪いことに自分が巻き込まれたりするなんて。
それは全部私の精神がややこしく気持ちが悪いことが原因なのだけど。
こんな風に息が出来ない気持ちになると言葉が欲しくなる。
息をする為に。


とはいえ、毎日最悪に不幸かというと、
そういうわけではないのだ。
人間には色んな立場というのがあり、
その色んな立場を生ききるしかない。
そこのことを受け入れた上で、
私の心の底の底の方から薄暗く、流動的に、蠢く、
何かが這い上がってくるときがある。
昔はそれがなんなのかとたくさん凝視していたものだけど、
今はそういう事がほとんど無くなった。
愛情を注ぎ合う相手がいるからかもしれない。
でもその事も単純にはいかなくて、
とても面倒な状況も伴っているので、
そのノイズみたいな、テレビで言う砂嵐みたいな部分が
私の中で瞬間的に「ジジジ」と響くたびに、
昔の暗い塊が底の底の方から「ズズズ」と這い出してくるようなのだ。
やはり私の本質は真っ黒い闇なのだろう。
闇に反応し、闇と共に生きる。
光を浴び過ぎると、どうしても酸欠みたいになる。
実は光が届かない深海は栄養が豊富でみんなが知らない楽園だったりして。
という妄想にふける。