睡眠はひとつの快楽です

昨日、BSで谷川俊太郎のプレミアム8を観た。
78歳で見た目はすごくおじいさんなのに、
喋り出すと、エネルギーに溢れ超若々しい。
時折、詩の朗読を交えながら、
アナウンサーが谷川さんにインタヴューするという形式。
詩の創作の秘密のようなものを、
包み隠さず、解りやすく言葉にされていたように思う。
特に印象に残ったのは、
ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』という本から引用した、
詩人の人としての欠陥について語る下りであった。
昨日初めて知ったのだけど、
谷川さんは3回結婚して、3回離婚している。
3度目の正直も叶わなかったということだ。
結婚生活がままならないというのは、
多分、人としての欠陥要因が端的に表されている部分なのだろう。
何かを手に入れるために、何かを犠牲にしている。
それは、誰しもが経験していることだと思うのだけど、
結婚生活の破綻はけっこう大きな代償だなぁと思った。
詩人のエゴイスティックな部分に、
遠くはなれた読者は魅力的に感じるけれど、
すぐそばに居る家族なんかは迷惑していたりするのかもしれない。
そういう、詩人の負の部分を知ってから、
詩を読んだりすると、また深く味わえるような気がする。
 
それから、鬱病についての谷川さんなりの解釈を聴いて、
私はすごく胸が、すっと、なる想いだった。
社会的な世界に属する私と、宇宙的な世界に属する私。
人は2層の世界に属して行ったり来たりしているのだけど、
社会的な世界の感覚が濃くなると、人は鬱病になるのではないか、
ということ。
もちろん、それで平気な人もたくさんいるんだと思うのだけど、
やはり、何者でもない自分であったり、意味のない自分、
単なる自然の一部分であるという感覚が薄れてしまって、
社会的価値ばかりが強まると、
どうも世界に靄が広がりやすくなってしまうんだと思う。
社会的に居場所がないのであれば、
とことん宇宙的な次元に身を置いて、明るく楽しく生きて行けばいいのに、
と、私なんかは思うけれど、鬱病の人たちはどうも違うらしい。
生きていく価値みたいなものが、社会的な世界にしかないという、
社会の刷り込みがいけないのではないかと。
学校の教育なんかがその典型だ。
とはいえ、大部分の人たちにとって、学校は有益な場所であるし、
それなりのことを、それなりに学ぶ事が出来る。
様々なパターンの人間が居て、それに対応できる受け皿が、
うまく発達していけばいいと思う。
 
谷川さんは死ぬのが楽しみだとも言っていた。
あれほど、はっきりと生きているうちに死が楽しみと言い切っている人を、
私ははじめて観たような気がする。
自分が死ぬのは平気だけど、愛する人の死のほうが怖いとも。
一人っ子で、母親に溺愛されて育った谷川さんは、
本当に満たされた人生を送っているように思う。
母親の愛情という名の魔法、というべきか、呪い、というべきか、
それがうまく作用していて、しかし、そのせいで、
3回の結婚と、3回の離婚があったりするのではないかと
私なんかは思ってしまったりして、
とにかく、母親という存在は、死んでも子供の根本に、
影響を与え続けているのだと思った。
 
いい番組だったなぁ。