猫遊戯

今朝、兄と母と3人で話しをしている中で、
「あんたはいつも猫と遊んでるだけじゃない」というようなことを、
母から言われ、
「なるほど、母にはそんな印象だったのか」
と悲しいような、嬉しいような変な気持ちになった。
確かに私は日々猫と暮らし、猫を撫でまわしながら生活している。
だからと言って「猫と遊んでるだけ」と言う訳ではないが、
私が死んだとき「あの人、結局猫と遊んでるだけだったね。」と、
言われたとしても悪い気はしない。


日々様々なイメージが浮かび、消えていくけれど、
少しずつ私は周囲の雑音が遠のき自分が創出したいイメージがなんなのかが、
解ってきているような気がしている。
もちろん時々は他人の音に耳を澄まし、他人の音に紛れることもあるけれど、
そこから抜け出して、ふと清らかな風が体内を流れることがある。
「そうそう、これなのよ、これ」
と私は独り大きく頷いている。
今日は病院で母の診察を待っているときに、
そんな状態に陥った。


結局イメージの手助けになるのは「音楽」だと思った。
「音楽」はここではないどこかへいとも簡単に連れ去ってくれる。
行き先は音楽を作った人の中から滲み出てくる世界だ。
その場所がいかに気持ちがよいか、
もしくは懐かしさを覚えるかというのが、
ハマる重要な鍵になってくる。


それにしもて「懐かしい」という感覚はどうして湧くのだろうか。
初めて出会ったはずなのに、どこかで感じたことのある世界。
それはきっと恋と似てるんだろう。
恋の仕組みを知っている人が、表現をするのだ。
「懐かしさ」や「安心」や「暖かさ」を、
極めていったその先には何があるんだろう。
やってきた所と、行く場所が「そこ」であって欲しい。
そうすれば何が起きたって、
この世界を悠々とやり過ごすことができるのだろうから。


そのような一種のファンタジーを心の底から信じること。
この気持ちは「信仰」と言えるかもしれない。