アラサー女子のカジュアルな信仰

以前、某編集者に与えられたテーマが、
「アラサー女子のカジュアルな信仰」だ。
私はちっとも書けなかった。
しょうがなく書いたけど全然おもしろくなかったし、
某編集者から連絡もない。
そりゃあつまらない文章だったから仕方が無い。
最近そのテーマについて改めて考えている。


そもそも「信仰」という言葉に「カジュアル」という言葉を使ってもよいものか、
と考える。
日本では何でもカジュアルになってしまったのかもしれない。
ポップという言葉もそうだ。
もはや「ポップな信仰」でもいいかもしれない。
しかしその一方で自殺は増え続けている、
親は子どもを虐待するし、老人は孤独死するし、
家庭内の崩壊も始まって久しい。
生活の根元からぐずぐずに腐っている。
夢中になっていることからふと顔を上げると
「ポップ」とはほど遠い世界が辺り一面に広がっている。
まだ28年しか生きてないけど、もしかしたらこの世界は、
いつまでたってもそのぐずぐずに腐っている人々の割合は減らないのかもしれない、
と思ったのは最近のことだ。


「信仰」について考える時、私はイスラム教徒をおもう。
彼らの生き様こそ「信仰」に値する。
信仰とは全エネルギーをそこに注ぐことだ。
かれらは信仰の為に戦争をする。
殺し合う。他者の信仰を理解しようとしない。
イスラム教でありコーランが全てだ。
それを信じず、踏みにじろうとするやつが悪だ。
私おもう「信仰」とはそういうものだ。
「カジュアル」や「ポップ」とはほど遠いもの。


私たちは本当に危うい世界にいるなー、と思う。
他人が信じるものを尊重しつつ、
私には永遠にわからないな、と思ったりする。
信仰の対象がバラバラなのだ。
孤独の時代を生きているといえる。
が、孤独だからこそ本当にだれかと繋がることもできるのだろう。


共同体に興味がある。
それぞれの主義主張信仰思想を越えて、
私たちは平和に暮らす為につながらなくてはいけないだろう。
隔たりを平気に飛び越えて自由に行き来しなくてはいけないだろう。
そうすることに、新しい世界の在り方があるから。


「人類がこうあったらいいな」とか
「幸せに暮らせたらいいな」というのは、
傲慢であり、エゴなのかもしれないけれど、
人々はきっと本当のところは、
おもしろおかしく生きる日々を求めていると思いたい。


同じ部屋の中で、誰かひとりでも寂しそうにしてたら、
私は気になるし、私も寂しくなる。
そんなことしていたら永遠に寂しいのは知ってるけど、
たぶん辞められないんだろう。
人がその精神を持つことがどれだけ美しいかを学んだのは、
宮沢賢治である。