生ぬるい日々にさようなら

世の中は物が溢れている。
人々は物にお金をつぎ込んでいる。
私たちは知らず知らずのうちに誤摩化されている。
私たちのエネルギーは、いつの間にか、物にすり替えられていく。
あれが必要、これが必要、
あれが欲しい、これも欲しい。
田舎育ちの、純朴な父と母がハマった現代のトラップについて考える。
私は断ち切らなくてはならない。
そして一番美しかった時代に帰らなくてはいけない。
かといって、全く物が不必要というわけでもない。
ただ、魂の込められた、きちんとした物に、
きちんとした対価を支払いたい、という気持ちだ。


悲しくて仕方がない。
それでも、彼らはこの世の仕組みに巧く順応し、
生きているのだろう。
それでも私は悲しい。
この悲しみはなんだろう。
色々なものを亡くしている悲しみだ。
物やお金で、色々なものが亡くなっていて、
その事に気付いているけど、気付いていないふりをして、
いつでもイライラして、
「こんなはずじゃなかった」
と、ジレンマを抱えている。
そんな風に考え感じる私は、
彼らにとっていつまでたっても欠陥品で、
社会的に何の価値もないつまらない娘である。
この感覚は死ぬまで覆らないのだろうと思うと、
私は悲しくて仕方がない。
両親の「つまらなくて残念な娘」という視線に、
私は苛立ちを覚え、時々発狂するように親を罵る。
不毛である。
何もかもが不毛でやるせなく、
無駄な気がしてくる。
それでも私はこれらも生きていくし、
彼らの思想に迎合した時期もあったけれど、
やはり不可能だと知っているし、
だから、もう終わりが近づいている、ことは嬉しい。
それでも、私は親が心配で、
離れる事が出来ず、色々な葛藤や鬱屈を抱え、
ゴウゴウという音を立てて生きている。
彼らのいいように使われることをよしとしながらも、
完全にいいように使われることを避ける為に、
何もしない事もする。
矛盾だらけだ。
生きているときのどうしようもない苛立ちを、
人々は色々な形で抱えているのだろうか。
種類は違っても、試練のようなものを抱えているのだろうか。
よくわからない。
ただ、私が言えることは、
ハードな現実に遭遇しそれを乗り越える時の、
感覚であり、その極め方に、その人間自身が試されるということだ。
私はすでに色々なものを手にしていながら、
のうのうと暮らしながら、
甘ったるい悲しみを歌う人間には絶対に負けたくない。
言葉を刀のように使い、
魂を深く切ってみせる。
人間の魂を撫でるような言葉要らないのだ。
そんなものは生ぬるくて、まるで家畜のようだ。