スイッチ

笙野頼子氏の『金毘羅』を読んでいるのだけど、
これが、まぁ、おもしろい。
何がおもしろいって、
私の中で点と点で離れていたものが、
線となって繋がって、ははぁそういうことか、
となる瞬間がたくさんあって、
世界が開放される感覚がおもしろいのだ。
笙野氏の世界は私にとって確実にスイッチの
役割となっている。
一種の装置。
優れた作品にはそのような側面がある。
やはり好きでした。笙野さん。
でも、なーんか嫌なのはなんだろう。
結局、所詮人だからなのかもしれない。
どんなに好きな作家でも、
人間臭さが残るものだ。
それが嫌なのだ。
何者とも交われず、
ただひたすらに強烈な自我が存在しているだけの、
この滑稽さよ。
もう笑うしかない。
そして要は、“時間”というものの捉え方により、
人生は大きく違ってくるのだろうと、思った。
時間は様々な形で流れている。
今、この瞬間を、様々な捉え方が出来る。
その事実に意識的に気が付くか、
気が付かないかで、随分人生は変わる。
何もかもが空虚であると感じ、
現実のことに無感動になると、
違うものを求め始める。
現実ではない世界を求める。
それでも人は現実に対して欲望を持っている。
心の底から欲求する。
やっと手に入れる。
でもすぐに虚しくなる。
また別の何かを求める。
の繰り返し。
その仕組みに気が付くと、
無駄に驚いたり、他人や自分を傷つける事がなくなる。