やしきたかじんのディナーショー

やしきたかじんのディナーショーは
5万5千円もするそうで、
自分で払ってまで行きたいとは思わないけれど、
誰かに連れてってもらえるなら、
かなりテンション上がるイベントだとは思う。
人生最高のネタになるし。
ちなみに大学最後の冬、
笑っていいともの観覧をしたことがあって、
当時、今後かなりいいネタになるなぁ、
と思っていたのだけど、
今まで誰にも自慢した事がないし、
話をした事すらないということは、
大して自慢にもならないし、ちょっと恥ずかしいと
どこかで思ってるからかもしれない。
私にとって、言葉とは何かというような事を、
漠然と考えていたのだけど、
結局のところ、基本的に虚無で出来ている人生というものを、
虚無の代りに何か別のもので埋めるための
手段のひとつにすぎないのだと思った。
そこで徒然草の冒頭が浮かぶ。
『つれづれなるまゝに、日くらし、
硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、
そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。』
この有名な序文の素晴らしい現代語訳を発見。
『ムラムラと発情したまま一日中、硯とにらめっこしながら、
心の中を通り過ぎてゆくどうしようもないことを
ダラダラと書き残しているうちに、
なんとなく変な気持ちになってしまった。』
ここに私が文章を書くことのすべてが詰まっている。
やっぱし、吉田兼好いいなぁ。
というか、こういう訳仕方をする人が好きなのかも。
思わず日本語の可能性を垣間見た瞬間だった。
ヴィタリー・カネフスキー監督の映画を三本一気に観る。
暗いし、残酷だし、誰も救われないし、
下手をすれば、どうしようもない気分になる映画ではあるのだけど、
ところどころに、監督なりの笑いが仕掛けてあるので、
そんなに暗い気分になることはない。
私はこの世の、底みたいなところを時々覗いてみたくなる。
そして深く考え込みたくなる衝動に駆られる。
現在、北朝鮮で監獄に入れられている20万人の、
政治犯に思いを馳せたり、
第二次世界大戦時のドイツのアウシュビッツ
話しに関心を持ったり、
広島や長崎の原爆について考えるのも、
そんなに悪くない。
楽しいことではないけれど、
そういう、人間の持ってる普遍的な残虐性など、
普段は隠して無い事してある物事を、
定期的に自ら掘り起こして考え抜くことは、
何か、自分の精神の安定性を保つ上で、
重要な役割をしているような気がする。
残忍さや、残酷さは、
確かにこの世に存在する、ひとつの形であり、
真実であることを、常に頭の片隅に置いておくことで、
保たれる自らの平和みたいなものがあるのかもしれない。
不思議だけど。