この国の自殺率が一向に減らないという事実について考える

今日は諸事情により仕事を休んだ。
そして色々と物事が急激に変化した1日だった。
午前4時の人生と、午前7時の人生ではまるで違うというような事。
相変わらず奇妙な人生だと思う。
いやしかし、そういう急激な変化は、
実は全ての人間に起こっているのだろう。
人々は落ち着いて冷静に対処しているというだけで。
そんなぐにゃぐにゃした安定しない世界の中で、
久々に自殺について考えていた。
年間3万人以上の人が自殺で死ぬんだそうだ。
しかも12年連続。
どこかで踏みとどまれたかもしれないし、
どこかで何かの支えがあれば生きていたかもしれないのに、
するりするりと幾多もの網をくぐりぬけて、
この世から自ら消失する人々。
こんな世の中に誰がした、
と簡単に誰かのせいにできるわけでもなく、
ただちょっとずつ、私達全員でそういう世の中を
せっせと創り上げて居るんだろうと思う。
人は自分の事で精一杯なのだ。
自分がどうなるかも解らないのに、
他人の面倒なんて見きれない。
わずかばかりの財産に執着してみんな自分だけが生き残ることに必死だ。
世界はいつだってサバイバルレースだ。
産まれてから死ぬまで何者かに常に追い立てられている。
昔、そういう事をたくさん考えていた気がする。
どうして今そういう世界が戻ってきたんだろうかと
考えると、昔とは少し違う視点で眺めるかもなと
思えたからかもしれない。
そもそも、私はなぜ自殺しないのだろうか。
なぜ引きこもりにならないだろうか。
なぜ鬱病にならないのだろうか。
そんなことを考えるのは馬鹿馬鹿しいかもしれないけれど、
少し考えてみると、やはりそれなりにこの世界は楽しいと思っている
からだと思う。
嫌なこともあるけれど、ワクワクすることや、気持ちが良いと
思える事がそこそこある。
快楽を味わうために生きている。
本当にただそれだけのような気がする。
私は以前、鬱病になる人は頭が悪いとブログで書いて、
友人を一人なくしたりしたけれども、
それは今でも時々考えることで、やはり脳みその問題ではないかという
結論にどうしても落ち着いてしまう。
脳みそというか体質なのかもしれない。
そういう状態に持っていくのは自分自身であり、
そうなる前になんとかしようと思えば出来るのに出来ないし、
しないのは、実はそういう世界に甘んじて酔いしれたいという願望が、
あるのではないかと思ってしまう。
倦怠的で憂鬱で、とろっとした世界。
そういう世界にも実はその世界でしか味わうことの出来ない、
ある種の快楽というか甘美な世界があるんじゃないかと思う。
廃頽的な世界観好む性質の人間は確実に居る。
私達の実態はゼリー状のドロッとしたものだと思う。
顕微鏡で覗きこんだときの、アメーバのようなもので、
ドロドロ絶え間なく流れていて、様々な風景を、
それぞれの人間に魅せていて、感動させたり、
喜ばせたり、悲しませたり、狂わせたりするんだと思う。
全体にまどろむゲル状のものを(意識のようなもの)
をいかに操るかによって、人生は決まる。
この世を支配するのはそのような世界を感知できる人間で、
感知できない人間はただ、他人が提示する世界をそっくりそのまま
場当たり的に魅せられて、右往左往し続けるだけである。