快楽と苦痛の間の事

近頃歳を取って神経が図太くなってきたせいか、
自分の書くことに後悔することが減ってきた。
もちろん、なんか陰気な世界が出てくると、
ちょっとこんなのいいんかな、
と思ったりはするけど、まぁ別にたいしたことない、
と思って普通にする。
あと、時々「本当に私はそんな風に思っているのか」
と、よくわからなくなるんだけど、
思っていなくても、思っていても、
別にただの文章だし、なんて思って、
そんなに深く考えないようしていて、
どんどんいい加減なありのままの自分を、
ほどほどの真剣みと共に適当に出している気がして、
なんかいい感じだと、自分で勝手に思っている。
こんな風に書き始めた頃、
つまり、23歳の頃は、
毎回胸がえぐられるかと思うぐらいに苦痛に感じていた。
書いている時はいいのだ。気持ちがいいから。
しかし、書き終わってからが地獄で、
こんなの私じゃないと思ったし、気持ちが悪いと思った。
自分はなにかを語るような人間であるはずがない信じきっていたからだ。
自分で自分が作ったイメージでガチガチに抑制して、固めて、
封印していたのが、ふと、どこにも属することのない、
たった一人の自分に気付き向きあってしまった時に、
どどーっと溢れ出来てしまって、にっちもさっちもいかなくなり、
ほとんど常にパニックを起こして混乱して、
えらいことになっていた気がする。
この体験というのは、私だけのものであり、
似たような経験をした人も世の中にはいるのかもしれないけれど、
あくまでも私の精神の変遷の過程に起きた真実だ。
溢れ出るとはこういう事なのだと思う。
今は今で何かを出し続けているのだと思うけれど、
あの頃に比べたら、遥かに穏やかなものだし、
少しコントロールさえできてるような気もして、
随分生きやすくなった。
しかし、あの頃の勢いとか、疾走感とか、
ぐちゃぐちゃになってしまう感じも、
嫌いではないし、むしろ時々欲しくなるぐらいだ。
引き出しが増えたという感じかも。
人には人それぞれの移ろいがある。
その時、その時の景色がある。
そういう忘れてしまうものを、
なるべく時々思い出したり、
今はこう思うな、とか、確認することをしたいと思う。
その中で何が見えるのかというと、
よくわからないけれど、なにかに役立つかもしれないし、
役立たないかもしれない。
“全ての物事に意味は無い”
それは、とても前向きな言葉として、
私の中から自然と出てきて、深いところで納得する。
ただ、うわっ、て感じて、にんまりする事の連続が、
日々に起きればいいと思う。
世の中がどんなに楽観的になれなくとも、
楽観的に居れるように、
ぐっと、背筋を正す思いで、
今日も明日も明後日も適当に過ごしてゆくことにする。