心の隙間と文章と音楽の関係

わたしには隙間がある。
きっと誰にでもある。
そもそも人間とは隙間そのものを指すのかもしれない。
隙間があるとスースーするから、何かで埋めたくなる。
なんだか物足りないといつも思っている。
満腹になったと思った次の瞬間、もう満腹じゃない。
もっとたくさんのもので埋めたいと思う。
暴力的に全部を埋めてしまって、
最終的に消えてなくなってしまえばいいと思う。
それは気分によって言葉であって、音楽であって、
誰かだったりする。
私という人間の感覚が、ふいに誰かの感覚とリンクする。
それを人は縁とよぶ。
ぐっと、誰かのところに深く潜り込む。
どこまで潜り込めるだろうとまた探ってみる。
そっと撫でて、深く深く溶けてみる。
どうしてそういう事をしたくなるんだろう。
一体何を求めているんだろう。
やっぱりそれは“カケラ”なんだろう。
カケラとはなにか。
遠い遠い記憶、感覚、物語、音。
なつかしくて、あたたかくて、やわらかくて、
ちょっと泣けちゃうもの。
ある特定の周波数を持った人には、
そういうカケラがあるんだけど、
それを無意識の中に眠らせているか、
自らが引っ張り出せているかどうかで変ってくる。
カケラに対する執着、追い求めるエネルギー、
そういうものの濃淡で私達の存在する次元が決まる。
私にとって、だいたいの人が物足りないし、
偏ってるし、固いし、曖昧だ。
薄くて、ぬるくて、エネルギーが足りない。
だから僕はいつもひとりで寂しい想いをしている。
だから僕は透明になる。
僕は僕でなく、透明なもの、そのものなのだ。
とはいえ、誰よりも偏狭で我儘で他人を思い通りにしたいと、
考えているのも、僕自身だったりする。