美意識の違い

ちょっとずつズレた感覚がたくさん積み重なって、
この世界を作っているんだろうな、と思う。
「こういう世界をみたい」
という、その人なりの美意識が働いて、
何かを拒絶したり、受け入れたりしている。
そんな風にして、人間関係が築かれていく。
自分の意地悪さであるとか、矛盾であるとか、貧しさのようなものに
目をつぶって、正当さや、潔癖さ、正義を、
口だけで振りかざすような大人にはなりたくないと思う。
もちろん、何かと対面したときそういう思いが沸いて出てくる、
というのはあると思う。
真っ向からの正義を振りかざして
相手をコテンパンに負かしてやりたいというような、
排斥的な感情。
ただ、その時に対峙したその負の感覚や、みっともなさは、
あなたにはないのだろうか、ということ。
きっと、自分にもあって、普段からそれと対峙したくなくて、
押し込めようとしているから、他人の中にそれを見つけたとき、
とことん潰してやりたくなるんだと思った。
それは、弱さだ。
何かをいつも恐れているし、不安に思っている。
どうしてだろう。
もっと、もっと、たとえみっともなくても、
素直に自分の負の部分を出していくほうが、
世界とより深く戯れることの出来る近道なのに。
建前のかっこよさを取り繕うよりも、
どろどろに、十分にのた打ち回って苦しんだ人の、
本当の意味で何かを乗り越えた人のほうが、
きっと、世界を、人を、深いところで理解できるのだ。
そういうことをする勇気が足りない。
潔く、自分はすごくかっこ悪いと認めることができない。
かっこ悪い自分を愛せない。
どうしてだろう。
苦しいことは苦しいし、
悲しいことは悲しいし、
いやな事はいやなのだ。
もちろんその逆もあるし。
ありとあらゆる負の感情を押し込めて、
スマートに生きることを強要するぼんやりとした空気が、
鬱病が生まれる原因のひとつなのではないかと、
私は思う。
 
何か大事なことをすっとばして生きてはいないだろうか。
 
類は友を呼ぶ。
共感を強く望む人の周りには、
共感してくれるぼんやりとした感覚の心優しい人たちがちゃんと集まる。
そんな風にして人は自分が傷つかないように自らをきちんと守っている。
批判も、反感もない甘ったるい世界に埋没したがる人は、
それ以上の発展を、世界への理解を放棄しているのと同じなのだろう。
共感が、共鳴がこの世のコミュニケーションの全てだろうか?
そんなフワフワしているだけの世界なんて、なにが楽しいんだろう。