水みたいな女

半分の月がのぼる空』の作者、橋本紡さんが、
地元伊勢への閉塞感について語った記事を読む。
 
高校生のとき、ふるさとの閉塞感がたまらなくて、
地元を出たい一心で上京したらしい。

私はどうだったろう。
 
嫌という感情すら持てなかったように思う。
出生〜高校生まで、私にとって、この土地の世界が当たり前で、
それ以上の世界について想像しなかったし、出来なかったというのがある。
目の前にある色々なことを“現実”として受け入れすぎていたし、
今のように夢見がちになれる環境ではなかったし、
さまざまな要因がかさなって、自分の中にある大切な何かを
自ら凍らせて閉じ込めてしまっていた、冷めた子供だったからだ。
そう考えると、この土地は、子供のころの私のやわらかくて大事な部分を
完全に凍らせるほどの世界があったという点で、怖ろしいけれど、
私は東京に出て、大事な何かのカケラもなんとか取り戻してきたし、
またこの土地に戻ってきて暮らしているのは、
地元に居なければならないそれなりの理由があるというのと、
まぁ、それほど嫌でもない、というのもあるだろう。
 
都会で根気強く生きていく体力がない、
というのもあるかもしれない。
 
まぁ、どういう巡り会わせか、
私はこの場所を自ら選んで生きていて、
この地域に暮らす人たちとそれなりに巡り合い、
それなりに共に生きている
 
だとしたら、ここでなんとか、自分を殺さないまま、
順応させつつ、させない、ということをこなしてゆくしかなく、
それは、ひとつの音楽のようなものだ。
 
なんにもこだわらなくなったり、
突然こだわりだしたり、
世界はその時々によって変わるけれど、
私は私なりの物語を日々創っている。
 
私のリアリティはどこにあるんだろう。
ゴロゴロと転がって、世界がパラレルワールドに見えて、
今いち自分の芯がわかり辛くなる。
誰かの真似は得意だけど、しばらくたつと息苦しくなる。
水みたいに流れてゆく世界。
 
それでも人の本質は明るい光が灯っているのだと
私は信じたい。
そしてその気持ちは歳をとればとるほど、
確信めいたものになってきているのでありがたい。
 
今日は仕事で四日市まで出かけていた。
車中のBGMは、
ティンパンアレー、山下達郎松任谷正隆細野晴臣
だったのでかなり楽しめました。ありがたいです。