以心電信

今日は友達がバイト中に“人に伝えることの大切さ”について考えていたので、
私も一緒に考えてみた。
最初のうちは一体何について考えているのか今いちピンとこなかったんだけど、
根気強く教わる内に「そういうことか!」と伝わる瞬間があり、
もしかすると人はある程度、頑張って話をしたら解り合えるのかもしれない、
という希望が湧いた。
 
例えば、私は人から去る理由を説明しない。
何となく引力が働いて、近づいて、
何となく色々な出来事や感情や思考が錯綜し判断した結果、
何となく離れていく。
私だけの世界ですべての物事は完結していく。
そして自分自身の情報が解き明かされて、私はより私に近づいている。
一生続く謎解きのいくつかのヒントがもたらされたとも言える。
しかし、さらに解りやすく説明すると、答えは実に明瞭簡潔。
「この人かもしれない」→「やっぱりこの人じゃなかった」
と、いうことなのだ。
私の人生と彼の人生はどっからどう見ても一緒になるべきではない。
そういうビジョンが時間がたつにつれて、
より明確にはっきりと感じ取るようになる。
完全に私が悪い。
もっと早い段階で判断できればよいものの、
「もしかしたら」というところで、自己催眠のようなものをかけ、
ズルズルと引っ張ってしまい、思いがけず痛いめにあって、
勝手に大混乱に陥って、無駄に変な気持ちにならなければいけなかった。
私のそういった、ある意味、偏執的なまでの世界観を、
彼が受け入れてくれるかといったら、彼の中にはそんな要素は
ちっとも感じられなかったし、そんなものを、押し付けることもしたくない。
彼は彼で美しい音楽を放って生き続けているのだから。
かといって、自分の世界を我慢し続けて無理して一緒にいるのも耐えられなかった。
だから何も告げずにただ離れたのだ。
説明のしようがないし、説明したくないし、説明なんて求められいない気がした。
そもそも、私自身そんな世界に固執する人間だったことにすら気づいていなかったといえる。
彼が気がつかせてくれたと言っても過言ではない。
不思議なことに。
 
どういった話が通じるか、
どういった話が通じないかを、私たちは勝手に判断している。
だから、相手によって、話す内容を変更している。
それは、完全に自分だけの判断だ。
話をするのは、自分にしかできない。
他人に何かを語らすなんてことは到底不可能である。
テレパシーのようなものを使って、私たちは身を寄せ合って、
集まったり、離れたりしている。
私が日々感じたり、考えている世界は、特定の誰かを対象にする訳でもなく、
ただ、垂れ流し続けている。
でも、本当は、特定の誰かに向けて発信しているのかもしれない。
「ここにいるよ」と、
死ぬまで発信し続けているのかもしれない。
本当の誰かに巡りあえるように。
 
というような夢に付き合える人は世の中そうそういない。
今後、現れなかったとしても、それはそれでいいのかもしれない。
ただ、悔いが残らないように、出会おうが、出会えまいが、
死ぬまでメッセージは発信し続けるべきなのだ。


ほんと、この人たちはコミカルでいい。
音も素晴らしすぎるし。
このコミカルさに影響を受けてるバンドはあるけど、
やっぱり本物にはかなわない。
いいおじさんがコスプレしてるっていうのは確かにずるいが。