着信音

ちょっと携帯電話の着信音とかこだわってみようと思い、
YMORYDEENしようとitunesでダウンロードしたところ、
ダウンロードした音楽は着信音に使えなかった。
それに気付くのに2時間ぐらいかかった。
そんじゃあ、他のやつにするよと、
すんごい面倒くさい手順を試みたがどうしても出来なかった。
着信音のことで3時間ぐらい費やした。
くそう。
 
真夜中に掲載されている星野源の文章がとてつもなくよい。
フレッドペリーとのコラボで、テーマにもうまく沿っているし、
着地点も美しいし、なんか完璧だと思った。
西原理恵子の作品がほんとに好きなんだろうな〜
と、いうのも伝わってきた。
ぽっかりと空いた真っ黒いシミのようなものが、
人生により深い陰影を与える事をちゃんと知っている人だと思った。
そういうことを、言葉や音楽にさりげなく表しつつ、
キレイにまとめれられる表現者はそんなにいない。
というか、ほとんどいない。
 
よしもとばななと島袋道浩の対談で、
「本当にわかっていないから中途半端になる」
というのがなんだかとても残った。
完璧を目指しつつ、中途半端な自分を認めつつ、
色々やっていかなくちゃなぁ、と思った。
やっぱり、なにかいまいち突き抜けられないものがある。
時間はかかるが、わかるまで地道に日々を積み重ねてゆくしかないのだろう。
 
写真家にも色々いるけれど、
佐内正史川内倫子、それから梅佳代は、
同じ系統の人たちが同じように好きな写真家だろう。
奇跡の一瞬を残す才能ってすごいなーと思う。
その人のところに自然と集まってくるんだろう。
写してー、って。
それを才能というのだ。
音楽にしろ文章にしろ、自然と集まってくる美しい一瞬の風景を形に残す。
その一瞬は永遠で普遍なのだ。
そういう瞬間をいつも見続ける力が必要なのだ。
見えないということは、その人は見る器に値しないということ。
他の何かを見ているということ。
そういうことを、私はよく考えている。
 
星野源の『ばかのうた』と細野晴臣の『はらいそ』をよく聴いている。
この人たちの世界の類似点について探りつつ、
私が見たい夢について思いを巡らしている。
キーワードは“郷愁”だ。
 
何かが見えている人たちが見ているものを見ようとするのは、
世界の謎に一歩近づける気がして楽しい。
いつか形にしたいけれど、いつ出来るかわからない。
まだまだ自由にならなくちゃ。
私はずっととてもくだらないことに縛られ続けている。
それにいつも苛立っている。
ほんとはいつだって自由なのに、自由ではないと感じている。
それが一体なんなのか、ただの思い込みなのか、
私は死ぬまでにちゃんと自分をなんとかしなくちゃいけないだろう。
そうしないと、他人をなんとかするなんて事は到底無理な話なのだ。