透明通信


昨日は赤福氷&イチゴ氷練乳がけを食べました。
いやー、夏が終わるね。
 
絵描きの友人から借りた鈴木翁二さんの『透明通信』という漫画を読む。
最後にあがた森魚氏の文が載っている。
足穂や、乱歩や、賢治に通ずる、
いわゆる少年と宇宙の間にあるあれこれ。
ひさしぶりにそういう空気に触れて、
なにやらいい夢見心地。
それにしても、あがた氏はいちいちぐっとくる文を書くなぁ。
一部抜粋。
 
『我々一人一人の存在の絶対的唯一性。と同時に、それにまったく反する、
しょせんは素粒子の集合体であり宇宙の塵でしかないという所在の無さ。
という両極のまぜっかえしのただ中に浮遊しているということ。』 
 
『たった今ここに存するワタシやアナタは、たしかにかつての地球にも存したし、
56億7千万年後に弥勒の如く降臨する僕らの何代目かの子孫…
つまり〈全く別な新しい兄弟〉として生きているだろうという認識。
そう確信するとき、この自分自身が超絶的唯一者の分身であり、
同時に宇宙のニヒルのガス体でしかないということの双方が認識され、
叫び出してしまいたいほどにビックリし歓喜してしまうのだ。』
 
『僕らは、存在しあうもの同志は、根源的に永久的に懐かしいもの同志としての
存在であるということからは逃れられない。鈴木翁二の世界は基本は友情論だろう。
男女における恋愛においてのみならず、少年達の友情もまた、
失われた半球へのエロティックな希求と懐かしさ他ならないか。』
 
そういえばちょっと横尾忠則の絵の世界のようでもあるんだなー。
それから谷川俊太郎の詩にみる20億光年の孤独のような。
はたまた細野晴臣氏の創造の源である郷愁。
今はもうすでに失われてしまっているものたちへの郷愁からくる、
現実に対する渇望。
純粋な表現が産み出される為に必要不可欠なエネルギー。
全ては自己が地上に産まれる前の何かに対する希求からくるのではないか、
そして私が惹かれる表現は、やっぱりいつだって、そういう懐かしさではないか。
子どもが母親を欲するような、
母親の子宮に入る以前の場所。母以上に母的な場所。
そんな場所があるのかわからないけれど、
居てもたっても居られないほどに、体の芯から求めている場所は
そういうところにあるのではないかと、私は考える。
 
そして、これから村上春樹のロングインタヴューを読んでみることにするが、
彼もまた、真っ暗闇を照らす光として、
人間の精神に横たわる大きな物語を浮き彫りにし、
読むものの心の底にあるものを引っ張りだしている。
本当の闇は無だ。
音もなく、言葉もなく、色もない。
しかし人が闇に音を、言葉を、色を、あたえる事で闇を照らし、
闇はすでに闇でなくなっているのだ。
それによって私たちの精神にどのような変革をきたすのか、
人が人を物語ることの重大さが改めて注目されている。
私たちには物語が必要だ。
誰にも語られていない物語を物語る必要がある。
神話や、日本書紀や、昔話や、おとぎ話、
たくさんの物語を抱えて、私たちは私たちだけの人生を、
鮮やかに乗り越えていくことができる。
 
全ては闇から産み出されている。
私たちは闇から出てきて闇に帰る。
そして全ての人間が何かを照らし出す、つまり映し出す、
光なのだ。
光は光としての責任を持って、背筋を正しながら、
何かを映し続けなくてはいけない、という、得体の知れない使命感。
そんなものに突き動かされて生きているのかもしれないなと、
ふと思う。