なんだかんだいって

なんだかんだいって、恵まれているんだおもう。
 
週3日だけアルバイトして、
ストレスにならない程度に社会とのつながりもあって、
それ以外は、家の事をして、
好きなだけゲームをして、本を読んで、ネットをして、
考えたい事だけを考えて生きている。
実質的にすでに両親の世話のようなことに縛られていることを考えると、
まだ20代後半の私はどうしようもなく息苦しくなったりもするんだけど、
そういう事をなるべく考えないようにしなければ、いい生活だと思う。
世話をしながら、世話をされている。
お互いの依存関係に、時々体中ををかきむしりたくなるぐらい、
気持ちが悪くなるのだけど、考えなければいい。
そう、意識しなければいい。
感じなければいい。
人生にいちいち自分が望む完璧を求めたらキリがない。
なるようになる。
流れを読んで、変化を求められる時期が来たら変化するだけだ。
今この状況は、永遠ではない。
 
多分、同年代の人が10年ぐらい先(もっとか?)
に感じるであろう人生における重さを、
私は実は今、目一杯感じていて、そういう事に対して感じる苦しさを、
表にださないようしながら、なるべく快適に生きようと心がけている。
そもそも、そういう物事に対して完全に受け入れる事が出来ず、
不快であると感じている時点で、
私の性格の甘さというか、身勝手さが出ているのであって、
ほんとそういうことを思うと落ち込んで仕方がないけれど、
落ち込んでばかりいてもしょうがないので、
なるべく落ち込まないようにしている。
 
しかし毎日、痛みや苦しみや重さから逃げずに、
正面から感じる事で、何かがちょっとずつ浄化されていくというか、
強くなるというか、未来につまずく壁に、今つまずいているような
そんな感覚がして、悪くない。
だから愚痴る必要もないし、不満もない。
黙々と日々を積み重ねていくだけだ。
 
本来は無言でやりぬくべきことなのだろう。
しかし私はどうしても言葉にしてしまいたくなる。
言葉にする事で、私はいくらか救われているからだ。
まず、自分のための言葉。
こんな独りよがり極まりない言葉の羅列に、
他人は一体何を感じるのかはわからないけれど、
私はこういうことを考えて、こういうことをする人間なのだ。
 
そういう確認作業の先に、私は何かを見ようとしている。
それを一言で言うならば、“普遍”だろう。