痛みについて

みっともない気持ちも、弱い気持ちも、
全部自分で作り出している。
毎日、あの時間、あの作業をするとき、
私の心の中にじりじりとした気持ちがわいてきて、
なんとも言えない発狂まじりの衝動を抑えることに精一杯になる。
それにすごいエネルギーを費やす。
大丈夫なときもある。
でも、疲れていたりすると駄目なのだやはり。
精神が雑になってしまって、ふと感じる些細な嫌な事が、
勝手に膨らんで、その気持ちの持って行き場所がわからなくなるのだ。
まるで発狂まじりの衝動を自分の中に閉じ込めておく作業の
訓練をしているみたいだと思う。
そして発狂まじりの衝動が一体なんなのかを突き止めて、
そういう心理状態にならないようになったとき、
私はこの世でやるべき修行のようなものを終え、
人としてもう一段階上にあがる事ができるような気がする。
  
自分も他人も傷つけたくない。
 
人が誰かを傷つけるのは、
本人が傷ついているからだ。
人は基本的に自分の傷を他人にもつける事で、
癒される仕組みになっているんだと思う。
復讐なんかがそうだ。
もちろん自己嫌悪の嵐に見舞われさらに傷つく人も居る。
最初から誰も傷つけたくないという人はその傷を自分の中にストックする。
そうすると傷がどんどん溜まって、
いずれダムが決壊して大洪水が起きるように、
他人に取り返しのつかない傷を負わせるか、
それか自分がバラバラに壊れてしまう。
自傷行為なんかも、心のバランスを保つためにする行為のひとつだろう。
そうならないためにも、
その日のうちに受けた傷は、その日のうちに昇華させるに限る。
そして、ぐっすりと眠る。
起きたら心はリセットされている
という状態が一番望ましいと思う。
傷を癒すには、まず自分が傷ついている事に気付いてあげる事が大切だ。
自分の些細な傷に気がつける人は、
他人の傷にも気が付けるようになるので、
うっかり傷つけていた、というミスが少なくなる。
とはいえ、あんまり傷のことばかり気にしても、
辛気くさい人生になってしまいそうなので、
ほどほどが一番だけど、
まぁそういう世界も包腹していてもいいのではないかと思う。
やっぱり、紙とか、キャンバスとか、画用紙とか、楽器とかが、
好ましい気がする。
自分の傷は他人の傷でもあるので、
うまく昇華できていれば、他人の共感を呼ぶかもしれない。
自分の気持ちをごまかさないで正直に生きていく上で負う傷は、
充分に表現の対象になりうる。
 
そういえば、前、人に「どうでもいいことでつまづいている」
と言われた事があるのだけど、
その人にとってはどうでもいい事で、
楽勝にクリアできる問題も、私にとってはひと苦労なのであり、
そういうことを考えると、人の在り方ってほんといろいろだなぁ、
と思うのだ。
どうでもいいことも、どうでもよくないことも、
人それぞれなのだ。
そしてその時の精神の段階で色々違ってもくる。
見え方も、世界もほんとうにそれぞれで、
私たちはこの時、この生を、切実に生き抜いている。
 
ああ、強くなりたいなぁ。
ちょっとのことでは、ぐらつかない世界。
そういうのを死ぬまでに創りあげていきたいと、
村上春樹さんや、よしもとばななさんや、河合隼雄さんの本や、
タム君の漫画を読んでいると切実に思う。