永遠の現在

ようやく色々なしがらみから解放されつつあるなーと思った。
私の役目が終わったのだ。
もう戻ることはない。
私という存在がまるでなかったかのように煙の消えるだけ。
そうやって徐々に人の記憶から薄れていけたらいい。
 
私は誰からも求められてない。
そのことは、寂しさと安らぎが同じ量もたらされ、
静かな沈黙が訪れる。そしてひっそりと待つ。
しかし、ひとつのしがらみから解放されたと思ったら、
また新しいしがらみがどこからともなく湧いて出てくる。
そんなものだ。
そんな風にして、私はどこかに流れていくんだろう。
求められる所々で、私は私で居て、また時が流れて、
次ぎに行くまで、そこに居る。
舵をとって、私は行きたいところに行く。
いや、そこには私の意思なんて存在していない。
ただ選び取っているように思い込んでいるだけだ。
  
27年生きてきて、ひとつの実感。
世の中、意外とまじめな人がいないんじゃないかと思う。
でも私が求めているまじめさは結構特殊なものの気がするのだけど。
それにしても世の中どうしてこうチャラチャラした人ばかり居るのか、
と、考えてしまう。
それは簡単。私がチャラチャラしているからだ。
チャラチャラしてるか、軽薄か、のどちらかだ。
チャラチャラして、軽薄な人には、
チャラチャラして、軽薄な人しか寄ってこない。
そしてチャラチャラして、軽薄な集まりが出来る。
そう、世の中は結局、類は友を呼ぶ、という
真理で動いてる。
 
まぁ、結局私もチャラチャラして、軽薄な人間だと言うことなんだけど。
心を広く持つことや、博愛思想も大切だけど、
そろそろ大事な部分を貫くことも必要な気がしている。
 
つまりそれは、一人きりでいる覚悟を持つ、ということだ。
ただそれだけで、世界は随分楽しくて、美しく見えるものだということを、
実は他人はあまり知らないのではないかと思う。
もしくは、一人きりでいる覚悟を持っていないか、
一人きりの楽しさを知らないか、のどちらかだろう。
そんなことを言ったら他人はこう思うだろう。
「他人と居る幸せをしらないなんて可哀想だね」
そうかもしれない。
いや、他人と居る幸せは、私は充分知っている。
だからこそ、独りの幸せがより際立って感じられる。
自分自身の光が何よりの活力になるという事実は、
意外と知られてないかもしれない。