悩むな考えろ

精神的な病に冒されていないことのひとつに、
考え続けている、というのがある。
考えることはエキサイティングでとても刺激的なのだ。
新しいことを知ること、新しい世界が広がることが、
何よりも楽しい。
 
悩んでいる、とは少し違う状態。
ただ、もやっとした世界を感受して、
そこから抜けきれないという状況には時々陥る。
しかし、そのもやっとした世界はいったいなんなのだろうか、
その世界はわたしだけが認識しているのだろうか、
とかそんなことを考えるのを、
わりと楽しんでいる節がある。
 
もうすこし若い頃、
現実なんてどうでもいいと思っていた時期がある。
自分の頭の中と現実が乖離すればするほど、
私は何者の影響も受けずに、自分の世界に入り込んでいけると、
考えていたのだ。
誰と出会おうと、どんな環境にいようと、
私の頭の中には誰も入って来れない。
入ってくるものを厳しく検閲して、
だいたいのものを閉め出してしまう。
 
もっと若い頃、
自分が何を考えるかなんて一番どうでもいいことのように、
感じていた。
それよりも、周りが何を考え、何を感じているか、
その場がよりうまく流れていくには、自分が何を選べばいいのか、
そのことに集中していたように思う。
自分なんてほんとにつまらなくて、
しょうもないやつだと思っていたのだ。
世界の脇役。とるにたらない人。
今おもえば変な自意識過剰だった。
 
色々な私という存在の感覚を経て、
私はなんとか私という世界を受け入れて、
錯乱状態に陥ることなく、
すっと浸っている。
 
たぶん、私は長生きするだろう。
 
なぜなら、人としての成長が遅すぎるからだ。
曖昧であやふやで、ぼやっとした部分が多すぎる。
もっともっと、研いでいくべき感覚があるし、
出会うべき人や、感じるべき感覚が、
世の中にあるような予感がしている。
新しいものに出会った時の、あの感覚が少しでも薄れると、
つまらなくて、世界が淀んで、なにか停滞しているような、
自分が自分をサボっているような、
もう、自分は終わりなんじゃないかなというような、
そんな気分になってしまったのだけど、
最近はそんな風にもなりづらくなっていて、
歳をとるとは素晴らしいことだとしみじみと思っている。
 
そろそろ、また読みたい本が出てきたので、
ぐっと深く潜っていく流れになりそうだ。
涼しくなると、神経がきゅっと締まり、
どこか遠くにいきやすくなるのかもしれない。
だから読書の秋なんて、いわれているのかもしれないな。
もしくは、肌寒さに一抹の寂しさを覚え、
センチメンタルな気分になりやすくなるのかもしれない。
どちらでもいい、私は秋が好きだ。
 
サケロックや、スチャダラパー植木等らの、
あの感覚を愛おしみつつ、
私は、また私の感覚に流れていくみたいだ。
 
エネルギーはどこからともなくやってきて、
どこからともなく流れていくものなんだろう、きっと。