信仰について

例えば私が宮沢賢治が書く宇宙に激しく心を揺さぶられたり、
尾崎翠が書く苔の恋にときめいたりするには、
やはりいくつかの共通点がある。
 
万物を慈しむ眼と、こんこんと湧き続けるエネルギーと、ユーモア。
そして両者の生き方として、実際に苦しんでる人が近くにいると、
居てもたっても居られなくなり、側に寄り添ってしまうという魂の質。
 
そこに働いている衝動、
すなわちその人が持って産まれて性質、宇宙の原理に、
私は共感、共鳴するのだ。
 
きっと私が先人に学び命をかけてやり抜かなければならないことは、
そういうことなのだと、なぜか思わずに居られない。
 
私はこれからも求められた場所に行くだろう。
そして自分の世界を壊さない程度に、
隙間を埋めるように動き回るだろう。
なぜなら常にそこにしか私の居場所はないからだ。
 
そしてそこには私の意思はほとんど存在しえない。
そもそも私とはなんだろう。
とうとうと流れている大きな川の一滴にすぎないのだ。
しかしその一滴を澄み渡らせることに意義がある。
澄めば澄むほど、新鮮な世界が行き届いていくのだろうから。
 
このような気持ちを信仰と呼ばずして、なんと呼ぼう。