熊野古道ふたたび

天気もよいのでまた熊野古道に行ってきた。
天気がいいと山が呼んでるような気さえしてくる。
 
今回もさくさく歩いていると、
頭の中がどんどん山モードになっていくのがわかる。
山にある自然そのものが、私を丸ごと飲み込んで、
眼に映る風景、匂い、気配、全てが街には決してない何かで、
それに触れるの嬉しくて、楽しくて、気持ちがよくて、
道のりはハードなのに、ちっとも辛くならない。
 
山にしろ、海にしろ、
そこにある自然そのものに自分自身が接続して、
ちょっとずつ同化していく感覚は、
どんどん自分を健全なところに導いてくれる。
大きくて、優しくて、気高くて、ちょっと怖い。
自然と触れあわなければ解らない感覚。
これは癖になる。
サーフィンをする人は、多分自然と一体になる気持ちよさを知っているんだと思う。
一回それを知ると、他には得られないものだから、
天気がいいとふらふらと海に出掛けてしまうんだろう。
 
定期的に自然にどっぷり触れることは、
人間にとって何か重要なものをもたらしてくれる。
ひとつの回路を開発したという気がして、
その回路をもっと探求したくなって、単純にわくわくする。
 
旅でも、山でも、海でも、
どこかに行って、純粋に何かを感じたければ、
ひとりの方がいい。
少なくとも私はそうだ。
誰かと行けば、結局山ではなく誰かを気にかけてしまうし、
誰かの感覚が私の体の中に残ってしまう。
それだと、山と完全に交感したことにはならない。
山を歩いていて、人の声が聞こえてくるときほど、
がっかりする時はない。
邪魔が入った、と感じてしまう。
私と山との純粋な会話が途切れてしまう。
 
山はお風呂みたいなのだ。
山の中を歩いていると、どっぷりと浸かっている、
という感覚に近い。
山は浸かりにいくところだったのだ。
山に入っている時の独特の思考回路にも驚く。
 
山は不思議だ。
どこまでも美しく、その美しさにも隙がない。
本当にいちいち美しい。
そもそも熊野古道世界遺産で、屋久島のように自然文化財
指定されている。本当にそれは納得だ。
信仰と山。
こんなにも素晴らしい世界がこんなに身近にあるなんて、
恵まれているとしか言いようがない。
 
伊勢神宮という世俗の極楽の裏側に、暗く深く広がる山々。
沖縄に1ヶ月旅行したときのあの感覚と通ずる何か。
ニライカナイ
仏教的思想、神道的思想、
全部がごちゃまぜになって、日本人独特感性がそこにある。
それって、すごくおもしろいものなのかもしれないなぁ。
タム君の『ブランコ』もちょっと思い出した。
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