名前のまえ

今日はひさびさにBちゃんとおしゃべり。
やっぱりすごくおもしろい。
いいことをたくさん聞けた。
 
Bちゃんは再会するときはいつも、
なにかしら新しい事を吸収していて、
そのおもしろい所を全部細かく話してくれるからありがたい。
Bちゃんが今回話してくれた世界は、
私もぼんやり無意識で感知していた世界が、
よりくっきり詳細になった世界だったので本当にありがたかった。
「ああ、やっぱりそうなんだ」と、
改めて強く感知することができる。
人ってそういう体験が必要なんだと思う。
 
私とBちゃんの共通点は、
普通の人よりも世の中の不思議の事ばかりを考えてしまう性質だ。
これまで、その世界の情報交換を何度か繰り返してきた結果、
ある感覚が鍛えられてきて、以前よりも、より大きな世界を
自由に行き来できるようになってきた気がしてそれが嬉しい。
今後、人としてそうそう変な方向には傾いていかないのではないか、
という自信がついてきた。
生きている間にお互いの世界が、
もっと強固なものになったらいいと思う。
そしたら、なにかいいことが起こるような気がする。
別に起こらなくてもいいけど、起ることに越したことはない。
 
私たちは存在している。
この、存在している、とう事実は本当にすごい事なのだと思う。
どこまでも可能性が広がっている。
 
例えば、今世の中を席巻している感覚はたくさんある。
感覚を的確に感知して、共有して、私たちは仲良くなったり、遠ざかったりしている。
感覚にも流行がある。
流行の感覚は流動的だけど、それに乗ればそれなりに他人に支持される。
でも流行してない感覚ももちろん世の中には存在している。
時代遅れの感覚、使い古された感覚、そういったものが、
あちこちに放ったらかしにされて浮遊しいている。
判断を間違えて、そういったものにしがみついてしまうパターンもある。
それはとてもおそろしい事だ。
自分が感じたままにかっこいい事を言っていると思い込んでいると、
じつはすごくかっこ悪いことを大声言ってることもある。
そういう人は結構多い。
でもそれに賛同する人もいるということは、
普段あまり自分の頭で物事を考えない人がたくさんいるということだ。
 
人間にはイライラや不平不満をいい気分に変換できる、
心の装置を持つ必要がある。
 
基本的に似たもの同志が知り合うはずなのに、
トラブルやすれ違いが起きるのはもったいない事だと思わなくもない。