さて死んだのは誰なのか

先日、幽霊の話し、死後の話し、宇宙の話し、
をBちゃんと繰り広げていたのだけど、
やはり全て私自身が観た事も体験した事もないので、
どうしても想像しかできないのだけども、
死んだら終わりだとはどうしても思えないというのが本音だ。
いや、終わるものもある。死んだら肉体は腐る。
しかし、この私が考え感じ続ける“モノ”は、
どこかに在り続ける気がする。
どこに在るのかは解らないけれど、きっとどこかには在る。
ちょっと変化して、ちょっと移動して、どこかで生きる。
もしかしたらバラバラに分解されて、
いろいろなところに溶け込んでいくのかもしれない、
と、ふと思った。
 
そんな風に自分の都合のよい風に、
物事を考えていく事が人生だとも言える。
自分を超える何かの存在を受信する能力を鍛える続けることで、
進むべき方向を選んでいく。
そこに残った跡がその人の世界だ。
 
「さて死んだのは誰なのか」
は、池田晶子さんが最後にノートに記した一文だ。
さて、生きているのは誰なのか。
今ここでこのパソコンに向かってキーボードを打ち続けていのは誰なのか。
肉体の死に一直線に向かっているこの一個の生命体は何なのか。
人はひとつの流れ星のように肉体が燃えつきるのを待っていて、
俗に魂と呼ばれるものと乖離するその瞬間までここに居る。
どんどん積み重ねられていく知識の遺産を共有して、
それぞれが見えるものと見えないものによって立ち位置を変えていく。
 
幽霊と宇宙人と妖怪はどう違うのだろうか。
私は一度も観た事ないのに、他者が発する情報により、
まるで会った事があるような感覚で、考える。
「いる」と言い切ったらそれは「いる」。
言葉で表すことで、それはたちまち立ち現れ人類は認識する。
他人の夢を自分のものにする。
夢と現実と、生きると死ぬの言葉に振り回されながら、
ぐるぐると世界を巡回し続ける。