自分を知る

よしもとばななさんがイタリアの文化賞「カプリ賞」を受賞された。
海外で賞を取る作家は、よしもとばなな村上春樹ぐらいだろうか。
この両者の書く世界の深さ、普遍性、独創性は、世界に通用するものなのだろう。
言葉が紡ぎだすことで表される世界の美しさや、文章を読む楽しさが確かにある。


安全ちゃんのアスキーのインタヴューを読む。
http://ascii.jp/elem/000/000/608/608104/
どうやら世の中の潜在的需要を満たす為にブログを書いているらしい。
彼女の言葉を選ぶセンス、連ねる巧さ、様々な知識、そういうものが折り重なって世界が作られている。
やっぱり随分自分で工夫しているんだなぁ、と思った。


世の中には腐るほどブログをやっている人が居るけれど、
「お」っと思える文章を書ける人はほとんど居ない。
文章を巧く使うことはそれほど難しいのだ。


私はこれまで書きたいことを書いてきた。
ほとんど何も考えず、頭の中をキラッと横切るその風景を捕まえるみたいにして書いていたし、
書いているうちにどんどん脱線していく瞬間を楽しんだりしていた。
純粋な自己満足の為に書いているのであって、
そこに自己満足が得られないのであれば書く意味は無くなってしまう。


世の中どんなことが流行っていて、どんなことが求められていて、
人々はどういう世界を見たいのか、人々の気持ちとはどういうものか、
そういったことを正確に考え感じ言葉にすることが出来れば認められるのだろうと思う。


私は今年に入って色々な事があって、これまでのやり方や考え方を見直しを迫られている。
嫌なことは同時期に重なるもので、
とにかく「今までのやり方では駄目だ」ということを突きつけられている。
どこにも行けない。
でも、私は多分、ほとんどこのままこんな感じである。
ただ、少し今までとは違ってくる部分もあるかもしれない。
私が出来る限りの工夫をして、もっと文章というものを考えていくことが大切である。
私は文章においてまるっきりの素人なのである。
組み立て方や、構成の仕方をまるで理解していない。
でも、これは永遠に解らないことのような気もする。
ただ、「ぐっ」とくる言葉を選び取り、感情のままに羅列していくこと。
稚拙でも、めちゃくちゃでも、そのまま出し続けること。
それは子供が画用紙を目の前にして思い切り落書きをするのと同じだ。
そんなことしか、私には出来ないような気がする。
つまり、文章のプロには永遠になれない。


とにかく、等身大の自分自身を自分で知る良いきっかけになった。