向き合わねばならない

結局、どんな音楽を聴こうが、どんな映画を観ようが、どんな本を読もうが、
それは人生の根本から逃げているんじゃないかと、最近は思っている。
他人が作ったものは、他人がどれだけ命を削って創ったとしても、
私にとっては全て現実から目を背けるだけのエンターテイメントだ。


では、私が目を背けている事実、抱えている問題、
それは一体なんなのか。
辛くても苦しくても私はしばらくの間、
その問題と格闘してみようと思う。
そうしないと人生が前に進まない。
いや、すでに人生に前なんてものはなくて、
もはや私の人生は袋小路しか広がっていなかったとしても、
私は私の言葉に変換して、少しずつ理解してゆかなくてはならない。
理解だけが私を救うことのできる唯一の手段だ。
そして理解するのはたった一人、自分だけだ。


境界性人格障害」というのがある。
私はこれに当てはまっていると自覚している。
精神科医には通院していないし、今後通院することもないと思う。
なぜなら治癒方法はないそうだからだ。
薬で不安感や衝動行為を緩和させることができるそうだが、
それは一過性であり根本的解決になっていない。
つまり、薬と音楽と映画と本は私にとって同じなのである。
ただただ現実を誤摩化される。
最近は繰り返されるその世界に飽きてきて、虚無感がひどくなってきたので、
もはや自分で真っ向から対決するしかないのだと思った。


たしか今年のお正月あたりに「境界性人格障害」については意識していて、
テレビでたまたま見かけた「17歳のカルテ」がきっかけだった。
ウィナノ・ライダーとアンジェリーナ・ジョリーが出演しているこの映画。
「この映画は他人事ではない」という意識だけが刻み込まれた。


知人が「自分の事だけ考えることが出来る時間があって羨ましい」と言っていたが、
これは全くの逆で、この病気は自分の事しか考える事が出来ない苦しみに苛まれているのだ。
他人の事を考える事が出来ない苦しみがある。
他人の事が解りすぎるので愛する事が出来ない。
幻想が産まれにくい。
心に余裕が無く、いつもギチギチなのである。
もちろん恋愛は続かないし、友達もなかなか作れない。


そしてこの病気は遺伝する。
もしも私に子供が産まれたら、
私は母が育てたようにしか、自分の子を育てる事ができないだろう。
なぜならその育て方しか知らないからだ。
そして再び「境界性人格障害」の子供が再生産される。


直感が冴えているから、他人が解らないことを解る。
でも、他人が解っていることを解らない。


私は40歳代で病気で死ぬのが理想である。
もちろん自分の命をコントロールする事はできないのでただの妄想だ。
生きていることの息苦しさは半端ない。
これはこの障害になってみないとわからない苦しさだ。


日本の全体の2%はこの病気らしい。
2%は自分の事がよくわからずに、ときどき激しい虚無感に襲われ、
何かに依存し、誰かに迷惑をかけ、この世界に漂っているのだろう。
その2%に届く文章を書く事が出来たらと思う。
苦しみを緩和する為には、何かに夢中になるか、
気持ちを共有し前に進んでいける力を与える事である。
私もそんな風にしてなんとか今まで生き延びてきた部分は大いにあるのだ。