空無辺処

去年の年末ぐらいに友人に誘われて行くつもりだったタイコクラブに行けなくなった。
無理をしたら行けるのだけど、無理をしなかった。
私はこれから無理をしないとおもう。
よっぽどのことが起きない限り。


その代わり、昨日はBちゃんとお茶をした。
話しているうちに、自分の中に感じる常日頃の違和感や、
みっともなさ、弱さ、わがままぶりを、どんどん自覚する結果となった。
「もしかしてただのアホなんではないか」
と、自分の事を思う事もあるが、それをより濃くはっきりと認識したという感じ。
くっだらないなー、とうんざりしたけれど、
死ぬほどくだらない自分をがっちり受け止めた感はある。
一進一退を繰り返し、なにも変わってない自分を認めつつ、
なにかが少しずつ変わっていくことをほんの少し期待するのが人生なのかもしれないと思う。


事実、私は最近、結局戻ってきてしまった、という認識のなかにいる。
私が、逃げ出したい、認めたくない、受け入れたくないと考えていた事実は、
時間をかけてゆっくりと人生に侵入してきているということだ。
いずれそれらに私の全てを支配されて、真っ黒になって沈没するだろう。
そうなる前に、まだ思考が動く前に、私はこんな風に書き続けているのかもしれない。
思考だけが誰にも犯されず、私が自由にできる唯一の居場所なのだ。


様々な感覚がバラバラに存在している。
それぞれが強烈な意識を持っていて、私は引き裂かれそうになる。
「ほんとうの自分」
というのは、いくつもあって、
いくつもある意識の集合体なのではないかと思う。
私が「ひとつの自分」をクローズアップして自分の全てにしたところで、
「ほかの自分」が猛抗議をする。
一瞬のうちに世界は不安定になりガラガラと崩れ去る。
これも自分、あれも自分、この小さいのも自分。
と、色んな気持ちを認識し、認め私の中に納め、
うまく調和させ、共存させるテクニックが必要だ。
それは、とてもむずかしい。
調和と共存は、地球のテーマでもあるけれど、
たった一人の人間の精神にも言える事なのだろう。
全ての人間の精神に調和が訪れなければ、地球に調和が訪れるわけがない。
なんだかとても途方もないことのような気もするけれど、
私の心のアンバランスさは、この世のアンバランスさでもある。


私が私を傷つけることをせず、
本当に自分の人生を受け入れるようにならない限り、
私は私の人生を歩いていると言えないのだろう。


感情の激しさや、荒れ狂う怒りの嵐の中で、
ぐっと、人々が精神を平穏に保つことを心がければ、
おのずと世界は平穏になる。


しかし世界はそうではない。
世界は私の為には存在していない。
そういう勝手な生き物で、全く充てにできないものなので、
人も勝手に好きな風景を思い描いて生きるのが得策なのだといえる。
この世で本当に充てにしていいのは、自分自身だけなのだろう。