人間を知るということ

境界性人格障害について調べていると、
ユング錬金術、神話、などにたどり着いた。
それらは以前、出会ったことのある事柄なので自然に入ってきた。
深く深くもぐること。
それはそうせざるを得ない人間がそうやるだけのことで、
別にそうしなくてもいい人間は一生しない。
これは体質であり、抗えないものだ。
どうしてそういう体質なのかというと、人間を知る為なのだと思う。
私は人間を知る為に産まれてきたのだ。


ありとあらゆる命が何かの問題を持っている。
なにかしらの欠陥を抱えてそこに居る。
私にはその欠陥が見える。
完璧な人間などどこにもいない。
それでも得意な部分を伸ばして、この世に役立てる為にここに居る。


つまづく人間とつまづかない人間が居る。
つまづかない人間は欠陥がないのではなくて、
欠陥に気がつかない、もしくは欠陥のまま受け入れているだけだ。
変わることが面倒だと考えている。
つまづく人間は苦しむが、深い所に行くチャンスがある。
人間はつまづかないと深い所には行かないし、行けない。
深い所に行くと、心底恐ろしい思いもするかもしれないし、
2度と浮上しないかもしれないという恐怖を味わうけれど、
必ず浮上する時はやってくるので、
沈むときは沈む所まで沈むのが正しい。
すると、物事のより深い部分を観る事が出来るし、
変な買い物や、妙な焦燥感がなくなる。
そしてその世界は持続するかというとそういう訳でもなく、
普通に他者と関わっていくと、また他者の思考回路が移り、
めんどくさい考え方に戻ってしまったりもする。
他者が見ている世界と、自分が見た世界をはっきりと区別する術が必要だ。
その為に言葉で記録する。
世界を自分自身に植え付ける。
確かに私が見て、感じて、なるほどと思ったことを残す。
それはいずれ自分が読んだ時にまるで別人のような錯覚をもたらすかもしれない。
でもそれで正しいのだ。
人は変わる。
毎日、一分、一秒、全く同じ自分はない。
そしてそれは他者にも同じ現象が起きている。
その事を腹の底から理解しているだけで、
生きていることの真実をほとんど知っていることになるのだと思う。