アウトサイダーに生きる

こないだ「ココロの景色」というアウトサイダーアートの展覧会のパンフレットをもらった。
知人が作品を出展していたのだけど、名前も偽名だし、インタビューもすごく嫌々受けているのが伝わってきた。
それがちょっとおかしくて、かっこよかったのだけど、
この展覧会に出展している人のほとんどが、
なにかしらの精神病に冒されていたり、軽い知的障害者の人々である。
私は丁度、暗闇の世界に入り込んでいた時期だったので、
彼らの作品が普段よりも、ぐっと入り込んできたのは確かだ。


暗闇の世界に入り込むと、世の中で若者に受けている、
流行の音楽やアートに何の感動も受けなくなる。
全てが無意味に感じる。
私の世界では確実にそうなのだ。
現代の感じとか、世の中の空気感のようなもの、
好んで聴くリラクゼーションの世界。
全てがまやかしで、私は今まで踊らされていたんだと思った。
もちろんこの世のほとんどの人たちがそれでいい。
それで幸せだし、それは素晴らしい事だ。
私もその世界に居続ける事が出来たら、それはそれで満足である。
でも、私にはその世界に居続ける事が出来なかった。
自分から追い出したのか、それとも追い出されたのか。
私には突然居場所を失った。
迷子の子どもみたいにウロウロしていたら、
アウトサイダーアートに出会った。
それから、仏教に出会った。


きっと私は一生メジャーに生きる事はないだろう。
ずっと、日陰のじめじめした世界を生きて、少し怪しい事を言い続けて、
でも、私が納得した事だけを書き続けるのだと思う。
私は表に出ると同時に消えてなくなる。
私は私ではなくなり、つまらないただの女になる。
流行に生きることはそれなりにおもしろい。
でも、それだけでは生きる事が出来ない。
人生は軽いが、軽くない。
これは気質であり、特性だろう。

様々な世界を内包し、
私という生き物のバランスを保つため、
様々な知識を得、頭をひねって、体で理解する。
全ては正常を手に入れる為の涙ぐましいまでの個人的な努力である。