非現実的な夢想家

中日新聞のコラム「中日春秋」を毎日観ている。
今日は村上春樹氏のスピーチと新エネルギーのオーランチオキトリウムの話しだった。


村上春樹氏の「非現実的な夢想家」という言葉は、
ジョンレノンの「イマジン」を彷彿とさせる。
そのことを中日春秋の人も書いていたのだけど、
私も村上氏のスピーチを読んでジョンレノンを思い出していた。
脱原発は集団ヒステリーである」という感覚が私には全くわからない。
そうのたまう年配の方々は一体なんなんだろうかと思う。
今の生活を変化させる事ができないと思っているからだろうか。
とにかく、ぞわっとするのである。
世の中にはよくわからない理屈や論理で生き抜いてきた人々がたくさんいて、
そしてそういう人々が人生を成功させているような雰囲気を醸し出しているので、
この世はよくわからないと時々思う。


河合隼雄氏と谷川俊太郎氏の「魂にメスはいらない」を読んでいる。その中で、
「特定の個人にとって非常に大きい意味を持ったことを普遍化し得る人、
それが芸術家だとぼくは思うんです。」
という河合氏の言葉ある。
どこまで普遍的なものに出来るかというのは、
計算ではなく、持って産まれた資質が大きいのだと思う。
計算は誰でも出来る。
でも計算できない世界があるからこそ、
そこには価値があり、意味が産まれる。


普遍とはなにか。
それは個性の底に流れ続ける、人間の基本を司るものであり命そのものである。
それをあぶり出す作業を出来る人間が、いつの時代にもいる。
そしてそこには美しさがあり、清らかさがあり、
弱さに隠れた、他を寄せ付けない強さがある。
私がいつも心を激しく動かされるものは「普遍」なのだ。
自分と同じような気持ちに陥っている人間が他にも居るという事実。
そのことに感動を覚え、魔法のような時間が流れる。
「この作品に出会えてよかった。生きていてよかった。」
そこまで人間に深い感動を与えるものが真の芸術なのだろう。


人生という長い時間をかけて、
一生の間に起きる、くだらなくて、つまらない時間さえも、
芸術を作り上げる一部分に仕立て上げるということ。
そのような機能が生まれながらに備わっている人をきっと芸術家と呼ぶのだろう。