摂理

「摂理」とは。
キリスト教における概念で「すべては神の配慮によって起こっている」ということ。
近年ではわいせつ事件を起こした男が教祖の韓国のカルト宗教の団体の名前として知られている。
どんなに素晴らしい意味の言葉でも、胡散臭い宗教に利用されると薄汚れた感じがしてとても残念だ。


自分の意志には全く関係のない世の中に度々起きる理不尽なことを考える時、
「摂理」の世界によく逃げることがある。
この世のありとあらゆる苦しみも、苦悩も、神様が与えたものであると。
なぜそのようなことをするか。
それは人間が「苦しみ」を知るためなのではないかと思う。
つまり真の「苦しみ」を知らない限り、真の「楽しみ」を得ることは出来ない。
様々な熱量で私たちはそれらを得るのであって、
感じ方も考え方もそれぞれである。
極端な幸せも、不幸も、それは色として音として、
なんとなくの雰囲気で、幻想としてそこにある。


世界は曖昧でつかみどころがなくただ浮遊している。
しかし、確かなことはどこかに連れ去られようとしているということだ。
抗うことも出来ず、私たちはどこかに運ばれている。
そして誰かと出会わせ、考えさせ、新たな熱量がそこに産まれる。
世界がみえる。


人々は世界を不安がり焦りもがく。
ただ漫然と流れる命がみせる幻影を共に見つめる。
人々は不思議そうな顔をしている。
一瞬一瞬に美しい旋律がある。
私たちは産み出し続けている。
産まれ続け、死に続ける。
理性と呼ばれるものがいくらつまらないことを判断したとしても、
それはいつも間違っている。
ただそういう雰囲気であり空気に呑まれただけである。
本当は、真実は、いつだって限りなく純粋で透明であたたかい。


そういうものを見続ける生き物になりたい。
もしくはそれそのものになりたい。