魂の浄化

久しぶりに3日連続でアルバイトをした。
心地よい疲労感。
労働はよいもんだと思いました。
こんなテイタラクが働く場所があってよかった。
心の底からありがたい。多謝。


私は行き詰まっていた。
いや、進行形だ。行き詰まっている。
自分がどんどん停滞して、淀んで、腐っていくような。
そんな苦しみの中に居る。
どんなに抜け出そうとしても抜け出せない。
窒息する。
腐敗する。
どこにも灯りが見えない。
進むべき方向も見えない。
キラキラと輝いていた、その命は、もう濁っている。
きらめきはどこにもない。


情熱の灯火は消え、
私は沈黙の中に居る。
言葉は踊りださない。
言葉は浮かんでもこない。
見えない、聴こえない、どこにも繋がっていない。
私は誰も求めていないし、誰からも求められていない。
そんなイメージが私を支配していく。
そんな風にして人は死ぬ。
生きながらにして死ぬとはこういうことだ。
まったくの孤独。
まったくの闇。


病気だという人もいるだろう。
これは病気ではない。
人生に全うに起こりうる、全うな現象だ。
ある種の人間にとって極めて当たり前のことなのだ。
その事実は病気であることよりも受け入れ難い。
病気であれば、いくらか回復する見込みもみえるだろう。
しかし、これには回復という現象は当てはまらない。
なぜなら、極めて全うな現象だからだ。


焦燥感。
焦燥感だけが、カラカラと乾いた音をたてて転がっている。
その様子をぼんやりと眺める。
何も手を出さず、私は見つめている。
全ての現実を、全ての現実のままに受け入れていく。
誤摩化さず、惑わされず。
私は世界を受け入れる。


が、私のいう現実というものがどこまで信憑性のあるものか怪しいものだ。
私の現実は、ただ私だけのものだ。
私の現実は、誰にも受け入れられることはなく、
通り過ぎて行く。
誰からも気にも留められず、世界は流れていく。


愛されたいと泣いている赤子が揺りカゴに揺られている。
この世の全ての人間から発せられる言葉の意味が空洞化され、
「アイサレタイ」
と叫んでいるように聴こえる。
アイサレタイ、アイサレタイ、アイサレタイ、アイシテ。
アイスカラアイシテ。
私も。君も。
アイシタイ。
そしてアイサレタイ。


私が得意なことは、
私なりのアンテナに集中し、広い集め、宝物みたいに大事にすることだった。
誰のものにもなっていない言葉を。世界を。
私は私のものにしたい。
見つけたら、意地悪く、誰にも渡さない。
そうだ。私は意地悪なのだ。


そんな風にして、私は行き詰まっている。
わめく、なげく、なきさけぶ。
みっともなかろうが、支離滅裂だろうが、
私はそんな風にすることの中にしか自分を見つけることが出来ない。


ところで自分とはどこのどいつなんだろう。