命の循環

ここのところ涼しい。
夜はぐっすりと眠り、朝すっきりと目覚める。
真夏のうだるような暑さはしんどいけれど、
なんだか懐かしくなり、少し寂しい気もする。


久しぶりによしもとばなな氏の「キッチン」を読んだ。
途中で様々な事柄が頭の中に浮かびなかなか読み進められなかったけれど、
なんとか一気に読了した。


よしもとばななの原点。
あとがきにも書いてあったけど、
「克服と成長は個人の魂の記録であり、希望や可能性のすべてだと私は思っています」とある。
よしもとばなな氏はずっとそれを見つめ続け、言葉にし続けているんだろうと思った。


「キッチン」も「ムーンライト・シャドウ」も、
愛する人が亡くなる話しである。
「キッチン」の主人公は、幼い頃に両親を亡くし、祖父母に引き取られ、
おじいさんを亡くし、ついにはおばあさんを亡くして天涯孤独になる。
話しはそこからスタートしている。
運良く近所の良心的な家族に犬のように引き取られ、
可愛がられ、愛されるのだけど、またその家族が亡くなる。
どんどん人が亡くなって、結局遺された若いもの同士がよい間柄になりそうなところで、
話しは終わるのだけど、
私が思ったことは、人が亡くなるということは、
また新たな結びつきが産まれるという事である。
他者の中に、自分の中に新たな一面を発見し、間柄が産まれ、色々と物事が進む。
人が居なくなるという事は、新しく何かが産まれるのと同じなのだと思う。


実際に私の母親はとても自分の母親を愛していて、ものすごく依存していたようである。
30代後半まで嫁にも行かず、というか嫁に行く気もなく、田舎でのんびりと過ごしていた。
しかし、突如、母の母は犬の散歩中の事故により還らぬ人となってしまい、
茫然自失の状態で約一年過ごし、母の中で自然と湧いてきた欲望は「子ども産もう」だった。
ということは、母の母、つまり私のおばあさんが突然亡くならなかったら、
私はこの世には居ないのである。
母の中で人生をかけた大きな駆け引きであり、取引が静かに行われたのだ。


人が死ぬというのは悲しい事である。
巨大な光を持っていた人間が居なくなるということは、
同じ分だけの巨大な闇を人々の心にもたらす。
しかし、遺された人間はそれを受け止めながら、
自分にもその時が来るまでこの世を彷徨わなけらばならない。
なんの為に?
魂の成長のためだ。
成長した魂はどうなるのか?
我々は何の為に向上するのか?
感動するためだ。
きらめきは感動の中にある。
その粒を集めて、持って還るのだ。


今回改めて「キッチン」を読んで思った事は、
人生の基本は悲しくて辛いのであって、
だったら自分の意思では常に楽しいを選んだほうがいい、
ということだ。
その方が人生のバランスが取れる。
自分なりの方法で自分なりのリズムで明かりを灯す。
その努力はできるし、自分で選べる。


光が強すぎても闇が深くなるのなら、
私は誰にも気付かれずに、凡庸に生きたい。
無意識のうちにそんな風な道を選んでいるのかもしれない。


最後に「キッチン」から抜粋。


 “でも人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てられないのは自分のどこなのかをわかんないと、
 本当に楽しいことが何かわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの。あたしは、よかったわ”


 “ねぇ雄一、世の中にはいろんな人がいるわね。私には理解しがたい、暗い泥の中で生きている人がいる。
 人の嫌悪するようなことをわざとして、人の気を引こうとする人、それが高じて自分を追いつめてしまうような、
 私にはそんな気持ちがわからない。いかに力強く苦しんでいても同情の余地はないわ。
 だって私、体をはって明るく生きてきたんだもん。私は美しいわ。私、輝いてる。
 人をひきつけてしまうのは、もし、それが私にとって本意でない人物でも、その税金のようなものだと
 あきらめてるの。だから、私がもし殺されてもそれは事故よ。”