日本の夏

日本の夏は特別だと思う。
原爆投下、終戦、敗戦、お盆。
高校球児は炎天下の中で優勝を目指して闘う。
若い命を懸命に震わせる。
花火。海、山、川。
全ての物事が色濃く深い。
この世とあの世がシンクロしやすくなる。


夏と言えば、私の子どもの頃は心霊番組があったような気がする。
みのもんたが司会を務めていた「おもいっきりテレビ」では、
夏になると「あなたが知らない世界」という視聴者から寄せられた心霊体験再現ドラマをやっていて、
怖がりながらも、母親と観ていた。母は心霊モノが大好物だ。
心霊ドラマでも、ただ怖いだけのドラマと、
ちょっと泣けるドラマがあった。
私はちょっと泣ける心霊ドラマが好きだった。


今年の日本の夏はいつもより特別な夏になる。
東北の震災に始まり、「突然居なくなる」という現象が相次いだ。
当たり前にそこで生きていた、生活を営んでいた人が居なくなる。
人が居なくなるということは、その人がやりたかったこと、これからの計画、夢、
そういうものが全て跡形もなく消え去ったという事だ。
事故、病気、震災。
それは否応無く私たちの人生に入り込んでくる。
これからも幾度となく私たちを悲しませ苦しませるだろう。
その度に気持ちの処理をしなくてはいけない。
悲しみや苦しみの深さは人それぞれだろうけれど、
最上級の悲しみや苦しみに私は寄り添いたいし、寄り添わずにはいられない。
それは最上級の喜びと嬉しさを知りたいのと同じ欲求である。
光が濃ければ、闇も濃い。
そのことを知っていればなんてことはない。
生きていれば、いずれ最上級の喜びに出会う。
それは傲慢でも、自信過剰でもない、当たり前のただの仕組みだ。


「しっかりしなさい」
私たちはしっかりしなくてはいけない。
物事の道理を知り、物事を正しく理解しなくてはいけない。
そして悲しみと苦しみから何かを得なくてはいけない。
ただで転んではいけないのだ。
立ち上がるときはたくさんのものを両手に掴んで、
よりよいものにしなくてはいけない。
それは人間に課せられた義務であり責務である。
というよりも、人間には本来そういう能力が備わっている。


ふと、村上春樹氏の「ノルウェイの森」を思い出した。
あの物語も魂の分身のような恋人を失い、悲観に暮れる好きな女の子を、
献身的に支え続けるけれど、結局その女の子も後追い自殺をしてしまう悲しい物語だった。
あの物語で何よりも悲しいのは、結局死んだ男に敵わなかった主人公だろう。
フラれたのだ。


この世には悲しみから立ち上がれない人間がいるのも確かである。
東北での震災後、放射能で汚染された酪農家が悲観して自殺したケースもある。
老人の自殺も相次いでいる。
それ以外にもこの国では自殺で溢れ還っている。
もはや自殺は日常茶飯事である。
人間の美学の如く自殺する人間は放っとくしかない気もするけれど、
悲しみや苦しみに明け暮れて自殺を選択する人間はどうにか出来ないものかと思う。
しかし、実際には彼らの自殺を第三者が食い止めることは出来たのかというと難しいのだ。


結局自分を救うのは自分しかいない、
というのが最終結論だ。


深い闇の底にいる人物を引っ張り上げる魔法は様々であり、
どんな魔法が効くのかも勘を頼りに差し出し続けるしかなく、
勘を間違えたら二度と心を開くことがなくなる危険性だってある。


そのような危険性を背負いながら、
私はどんな言葉で、どんな物語を、世界の有り様を示す事が出来るだろうか、
ということだ。


自分とか他人とかを通り越して、雑念を消して、
集中して集中して夢中に、ただ純粋に助けることに真剣になることでしか、
その人は浮き彫りにならない。


私は集中しよう。
闇の底で暮らしている人々に。
それは命が本来持つ力を信じること、ただそれだけなのだろう。