怨念

よしもとばななの9月5日の日記を読む。
人々のトラウマの話しと、ゾンビの話し。
思い切り悲しい作品を読んで泣いたほうがいいとのことだった。
ゾンビの話しは、最近読んだ、
花沢健吾氏の「アイアムアヒーロー」ととてもよく似ていた。
ゾンビは人間が想像しうる一番残酷で恐ろしい世界なのだと思った。
愛する人々が化け物になり理性を失い襲いかかってきて、
自分が生き残るためは頭が砕け散るほどにとどめを刺して殺さなくてはいけない。
そんな世界、そんな状況、想像しただけて狂いそうだ。
とんでもない絶望と希望が交錯して、
私たちは世界をひた走っているのかもしれない。
ある次元において。


水俣病について書いた石牟礼道子さんを思い出していた。
水俣病放射能汚染は同じことをしている。
ただのんびりと暮らしていた土地をある日突然汚され、追い出され、
行き場をなくして、いつ発症するかもわからないガンに怯え、
そこにある精神状態は当事者でしかわからないのだろうけど、
ある程度想像はできる。
「怨念」であり「怒号」である。
私は恨み、憎しみ、怒りを、
正しく表現する必要があると思っている。
正しく昇華させることが必ず必要なのだ。
恨みも、憎しみも、怒りも、極めれば美しいものだと私は思う。
美しく恨み、美しく憎しみ、美しく怒らなくてはいけない。
それはとても難しいことだ。
しかし、石牟礼道子さんはそれをやってのけている希有な作家だ。
苦海浄土」という本の中で。
石牟礼道子さんは透明になって当事者の話しを聴き、
透明な文体で、当事者の芯を明確に捉えて書いている。
透明で、真っ当な恨み、憎しみ、怒り。


私は三重県に住んでいる。
少し距離があるので正直なところ被害者感覚が乏しい。
テレビやインターネットで流れてくる被災地の情報は、
薄まっているらしく、ダイレクトに響いてこない。
しかし、間違いなく怒っている。
しんしんと積もっている。
深く低い振動で伝わってくる。
正しく力強く美しく万人の心に響く表現が人々の間に産まれることを、
私は祈っている。