思考のドラッグ

パンジービオラやチューリップの球根やらを大量に買った。
夏に朝顔を育てていたプランターを利用して、
秋、冬、春と違う花を育ててみようという試みだ。
ホームセンターの園芸コーナーは行けば行くほど楽しい。
平日の昼間はだいたいお年寄りがウロウロしている。
そこに混じってのんびりと花をじろじろと眺めるのは、
少し天国と近いのではないか、というぐらいに幸福な気分になれる。
そして、結局アレも欲しいコレも欲しいとなり、
だいたい買い過ぎてしまう。
本当にたくさんの花達があって感心するし、
これらを全部覚える事が出来たらまた楽しいだろうなぁ、と思う。


私の心は恐ろしい性質を孕んでおり、
ものすごく熱中して「もうこれがなければ死んでしまう!」
ロミオとジュリエットのごとく、轟々と欲望の炎を燃えたぎらせたかと思うと、
気がつけばケロッと要らなくなっているということがある。
それはまるでおもちゃ売り場の前で、
買ってもらえないおもちゃをねだって泣き叫ぶ、
聞き分けのない子どもと全く同じ真理なのではないかとおもう。
つまり、成長していない。
いや、むしろ幼児化しているのではないかとさえ危惧している。


私が欲しいと思っているものは、ほんとに欲しいのか?
それを今一度検証した方がよいが、
好きという気持ちは難しいもので、
のぼせ上がって、うわーっとなっているうちは、
全く周囲など見えないのであって、
これはもうどうしようもないのである。
脳が何かをフル回転で放出している最中は誰も止める事は出来ない。
それは自分自身でさえ。


様々な思考のドラッグ、それは宗教であり音楽であり物語であるが、
そういったものの効き目はわりとすぐ効きくし心酔できるけれど、
私の人生そのもの丸ごと持って行くような効き目のある思考のドラッグに、
今だかつて出会ったことがない。
心酔していたものから醒めてしまうときほど寂しい事は無い。
もちろんそれは成長のひとつなのかもしれないけれど、
私はそこに踏みとどまっていたかったのだ。
踏みとどまる事が私の真の幸福ではないことも承知しつつ、
それでも私の欲望は踏みとどまる事を選択したいのだけど、
どうしても逆らえない。
そんなことが私の人生にはわりとたくさん起こる。
私が「こうでありたい自分」と、「本来の自分」が時々あまりにもかけ離れていて、
「これほどまでに自分を知らないということは、
世の中の事をほとんど誤解しているのではないだろうか。」
と、恐ろしくなるほどだ。