いつくしむちから

クラムボンの次に紹介するもんではないけれど、友達に教えてもらった
伊集院光の「深夜の馬鹿力」伊集院夫婦のお伊勢参りの話しの回。
おもしろいー。
伊勢うどん讃岐うどんの真逆って見事な表現。
伊勢うどんウイダーインゼリーだって言ってる人もいたなー、そういや。


最近脳内に去来する世界は、わりとあっけらかんとしていて、
それは高校生のとき「普通になろう」と決めたあの時のわたしの世界で、
うがーむがーと苦しみ抜く私とは別のカラッとした自分である。
私は私なんてものはなく、言ってみればただの筒であり、
去来する何かを情報として受け取り、
そのまま受け流して行くだけの生命体なのだという、
感覚が支配している。
いつでも自由に、何にでもなれるし、どんな感情にも一体化できるし、
ギリギリまで精神を追い込んで、次の瞬間ケロリとすることも可能で、
本当に何ものにも縛られず、どこへでも行けるなー、
という気持ちになっている。


執着は苦しみを産む。
私の本質は自由なのだ。
どこまでも自由で、ときめくものを求めて、
世界中を動き回っていい。


こないだ観た舞台、ドフトエフスキーの「白痴」。
「最も美しい人を描きたかった。」というドフトエフスキーの言葉の通り、
滑稽なまでに「美しい人」が舞台の上に居た。
その人は無垢で純粋で可哀想な人を放っておけない、そんな人だった。
人間が持つ感情の中で一番美しいものは「慈悲」である。
そして今の時代の人間が決定的に欠けているのが、この「慈悲」だ。
その人の本質を見抜き、その人に献身し、
「あなたを一生愛しますよ。」と言い切る美しさ。
どうして愛すのかというと、「可哀想だし、苦しんでいる」からだ。
全てを放り出して、その人を救いたいという気持ち。
そのエネルギーに勝るものはない。
そこに人間が持っているはずの根源的な高尚さをみた。


私は自由に愛したいものを愛すだろう。
私の部屋をノックする人が居れば、とりあえず招き入れて談笑するだろう。
しかし、その人が私の自由を奪うのであれば、
容赦なく部屋から追い出すだろう。
それは他者についても自分と同様に自由を尊重したいと思うのだけど、
いかんせん想像力が働き、確認もしていない事実を思い浮かべ、
勝手に不安になったり心配になったりして、
自由を奪い去りたくなる衝動に陥るのである。
不安や心配を招き入れ、蝕まれ、私は時々気が狂いそうになる。
しかし、それらさえも私の自由な意志によって実行されているのだ。


人間の根源的な悲しみに、
いつだってシンクロし、共鳴してしまうがゆえに、
時々他者に強く求められてしまうのだろう。
はたしてそれは愛と呼べるのだろうか?
ただ、私は絶対に逃れられない方法を本能的に知ってしまっているからではないだろうか?
それは、他者を苦しめやしないだろうか?


人は自分を投げ捨てて、他者の為に生きる事ができる。
それが人間の一番すごいところなのだと私は思う。