停滞する世界

世界が停滞すると焦る。
何も見えず、何も感じず、ただそこに居る。
その状態ほど苦痛なものはないのかもしれない、と思ったのだけど、
本当はそれはすごく自由な時間で、何かが始まる前の静けさなのかもしれないので、
何も焦る必要なんてないのかもしれない。
焦って何かに手を出すと、ちょっともったいないようなことなのかもしれない。


ただ私は世界は流れていて欲しいと思っているということだ。
次から次へと世界が流転し、留まる事無く、
どこかに連れ去って欲しいと望んでいるという事。
でも停滞する時間がもたらされるということは、
なにか足下を確認しろということなのかもしれない。
「なにもない」ことの贅沢を味わいなさいという事なのかもしれない。
何も持たず、ただ感覚だけが私の体内に宿っていて、
それをカタチにしたり、言葉にしたり、物に変換したりしながら、
人々は生きているのだと思うと、
なにか本当に素晴らしくて面白い事の要に思えてくる.


人と人との繋がりを大事にすることは必要かもしれないが、
過剰に大勢の他人にコンタクトしてしまう時代で、
そこにあるコミュニティであり世界を壊してはいけない雰囲気があり、
私はそれが息苦しいと感じる事がある。
そう言った他人との関わり合いから発生するビジネスもあり、
私たちは自由にこの時代を暮らしている。
何かを産み出し、何かを作り上げる。
そこにある節操のなさは、人を様々な形に変形させてしまうが、
私たちはその形に順応していく術を覚えるだろう。
新しい人が、新しい時代を創る。
それはウイルスみたいに思考を支配する。
私も多分に何かに支配されていて、何かを判断し続けているんだろう、と思う。