apple


友部正人さんのライブをみた。
今までに何度かみているけれど、
今回のライブがとても心に入ってきた。
CDも買ったし、本も買って、寝る前に詩を読んだりしている。
なんとなく、わたしも歳をとったということなのだろう、
と思っている。


本棚を整理しているときにふと目にした、
夏目漱石の「草枕」の冒頭がすばらしくうっとりとする。
言葉は何の為にあるのか少しわかったような気がしたけど、
わかったような気は、すぐどこかに去って行った。


言葉は風景を見せる。
風景は通過する。
電車の窓から眺めているみたいに、
人生は通過する。
風景は手で触れることはできない。
ただ私たちは何かを感知して、それを何かしらの手段を使って、表していく。
全ては風景で、わたし達は風景の一部分。
言葉はそういう実感をもたらしてくれる。
その実感はひどく寂しい気分にもさせるけれど、
ひどく軽くなった気持ちにもなる。
私たちが感知しうるすべては、通り過ぎる。
通り過ぎるにもかかわらず、執着して、
時々来たところを強制に戻って、もう一度眺めたりする。
それは自然ではない。
自然とはそのままながれていくことだ。
流れて流していって、私たちはどこかの駅に到着する。
駅に到着したら、列車をおりなくてはいけない。
それだけはわかっている。
それ以外のことはわからない。
わからないことだらけだ。


わたしはある男をおもっている。
ある男はどこか違うところにいて、
わたしのことをおもっていはいない。
ある男がわたしのことをおもってはいないことを知っているが
わたしはおもっている。
どうしてだろうか。
おもわなくてもいいのだろうがおもってしまう。
ある男がわたしにもたららしたものは、
ある男の人生だった。
ある男の人生は人々との出会いに満ち、
まるで神に祝福されているように、毎日充実に過ごしているようだった。
しかし、わたしが観るのは、充実さの影に隠された寂しさだった。
わたしは寂しさを観ている。
彼は満たされているようで、
ちっとも満たされていないようだった。
男はさみしいのだと思った。
男のさみしさだけがわたしの所にやってきて、
わたしはただ人生の一部分をある男の寂しさの横にたって、
ともに過ごすだけだった。
わたしは何も出来ずに、ただ同じときを過ごした。
ある日さみしさはどこかに消えていた。
きっと違う女の所に行って、違う女が寂しさとともに過ごしているのだろう。