はたして人生はひまつぶしなのか

昨日友人が呑んでる席で言っていた言葉。
「人生はひまつぶしだから。」
そのときも違和感を感じたのだけど、
次の日になっても違和感をかんじた。
そしてその違和感はますます強くなっていく一方だ。


こういうときに、友人に直接、
「いや、人生はひまつぶしじゃないよ。」
と、言えたらいいのに、私は言えない。
言ったところでなんだと言うんだ、と思ったりもする。
本人がひまつぶしだと言ってるならそれでいいじゃないか。
考え方や感じ方は千差万別、十人十色だ。
それを否定する必要なんてないし、私にそんな権利もない。
ただ、私ははっきりと、
「人生はひまつぶしではない。」
と、感じた、その発見があったことに価値がある。
ひと昔前の自分だったら友人のように、
「人生ひまつぶし」とか「人生夏休み」とか、
平気で言っていたし、それが信念みたいなところがあった。
もちろん今も少しはその要素があるのも事実だ。
ただ、やっぱりそれだけではないと私は思っている。
能天気なことばかり言っていられない部分があるのは確かだし、
なにか必死にもがいてる部分もある。
一体どこに向っているのかも解らないけれど、
とにかく何かを見ようと日々感覚を研ぎすませている。


人生は暇つぶしではないのであれば、なんなのか。
それは自分を何者かに仕立て上げていく極めて創造的なものだ。
人は日々創っている。
それは絵を書いたり、曲を作ったりしなくても、
瞬間瞬間の世界の捉え方によって、自分を創造している。
創造しては壊れ、そしてまた創造して、
世界は常に流動的で、微調節を繰り返している。
内側の世界にぐっと入り込むことで、
外側の世界との間に差が産まれる。
しかし、ぐっと踏み込まないと、世界を歪めることはできない。
異質で、歪な世界を創りだし、産み出し、送り出すことで、
そこに厚みのある異世界が表出される。
人はその世界に吸い寄せられ、同じ世界を体感し、
様々な情報を得る。
情報を得ると、人生がきらめく、明日を生きていく力になる。

内側にぐっと踏み込んで圧を加えて、
全くの孤独に陥ることに慣れるべきだ。
全くの孤独はニヤニヤとできる世界だ。
愛に満たされていて、怖いものがなにもない、そんな世界だ。

そんな世界に入る為に、私は文章を使う。
文章を使うとぐんぐんと内側の密度が濃くなるのが解る。
内側の密度を濃くして、全くの孤独になること。
もしかしたらほとんどその為に生きているのかもしれないと、
私は思ったりもする。