愛は錯覚である

大学でゼミを取っていた石川一雄教授の最後の講義の動画が、
フェイスブックでアップされていた。
その動画が素晴らしくて少し涙ぐんでしまった。
石川先生のゼミは国際政治学のゼミで、
テーマは「グローバル・ガバナンスと多民族共生」。
最後の講義で「愛は錯覚である」と最初に語り始める先生。
私たちはひとつにはなれない。違いを認めよ。孤立せよ。
孤立してそこにみんなと一緒に居なさい。
それらの言葉を聴いて石川先生のゼミを取っていて本当に良かったと思った。
石川先生は、エルンスト・トレルチというドイツの神学者の以下の言葉を引用されていた。


神の生命はわれわれ地上の人間の経験のなかでは「一つのもの」ではなく、
「多くもの」なのです。
そして「多くのもの」のなかにひそむ「一つのもの」を予感すること、
これが愛というものの本質なのであります。


仏教の「一即多、多即一」
という言葉も使われていた。
最後の最後にこれらの事を話しをされていたのが、
凄く納得がいったのだった。
そして先生のゼミを取ったことに凄い必然を感じた。
これらの物事を深く刻んで生きて行こうと思った。


保坂和志氏の「考える練習」という記事を読む。
友達に教えてもらったのだけど、これが本当にいい文章。
原発の話しといい、地方の過疎化の話しといい、野良猫の話しといい、
全部納得のいく話しばかりだった。


原発と都市と地方の関係は密接に絡んでいる。
都市にエネルギーが必要だから、原発が必要で、
むしろ都市に人が集まるから、原発が創られた。
原発は多くの無駄を産み出す。
無駄な工事、無駄な機能、無駄な情報。
我々は膨大な無駄の中に放り込まれていて、
その中からなんとか無駄を選び取らないように生きることに、
エネルギーを注いでいる。
都市は地方から有能な若者を吸い上げるので、
いつも地方は元気がない。
ちなみに名古屋や大阪や福岡や札幌といった街は地方ではない。
東京の真似をしている都市である。
地方というのはもっと何もない場所の事を言う。私の中では。
私は地方で暮らしているが、都市に吸い上げられかけている。
精神も体も。時々都市を求める。
都市で暮らす人々は、幽霊のように彷徨う。
幽霊のように目には見えない何かを追い続け、
世界を創りあげていく。
創りあげられた世界の原材料は原子力発電で創られた電気だ。
原子力発電で創られた電気で生活し、文化を楽しみ、恋愛をし、酒を呑み、
快楽を貪っている。
その中から「原発はいらない」といくら声高に叫んでも説得力はない。


今、地方で出来ることは山ほどある。
やりづらいことをやり続けることの意味を思う。
今、地方の人間がどんな言葉を発し、どんな世界を創るかによって、
世の中が大きく変わってくる気がしている。
どのような希望を持って生きて行くか、
そこを考えようと思っている。