洗脳について

最近「さみしい」という感覚が随分薄くなってきた。
全然さみしくない。
こう書くと強がってるみたいでなんか嫌なのだけど、
本当にさみしくないのである。
かえって誰かと居るときの方がさみしくなる。
相手のさみしさが乗り移ってくるときもあるし、
考えてることも感じることも違うんだな、と思うとさみしい。
つまり全ての人にさみしさの感じるカケラがある。
人に会うのはさみしさを助長させる行為でもある。
私は安易に「わかる」と言う人を信用しない。
そうやって安心させて隙間に入り込んで来ようする感じがして嫌だ。
「わかる」は「さみしい」の裏返しだ。
そんなことを言っては元も子もないが、
たまには元も子もないことを言っていないとやってられないような世の中だ。


最近ワイドショーで占い師に洗脳された女性タレントについての報道が過熱している。
しかし、人間関係少なからず「洗脳」の要素はある。
それを利用して金を巻き上げようと考えるかどうかの違いだ。
そもそも「恋愛」も「結婚」も洗脳の一種なのではないか。
ジョン・レノンオノ・ヨーコに洗脳に近い何かを受けたのではないか。
男の暴力だってそうだ。
男に暴力を働かせる要素が女にも少しはないか。
全ては見方によっては「愛」になる。
何かに出会ったときの高揚感であったり、
一筋の光のようなものを観たとき、
そしてそこに完全なるリアリティがあったとき、
それに人は夢中になる。
人生が、ギギギ、と動く。
私は人のその様を観た事があるし、
自分もそうなる瞬間があった。
そしてそれは、けして継続する事はなかった。
あの時のあの体中を駆け巡ったエネルギーは何だったのか。
その瞬間を求めて、人は人生を旅していると言っても過言ではないかもしれない。


世界は得体の知れないものの意思で動いていて、
我々はただの駒に過ぎない。
そんな世界が時々私の世界を支配し、
そしてそのような大きな力にまかせて生きてるという感覚は、
安心であり快楽なのである。