ASA-CHANGの正しさ

ASA-CHANGの「民族音楽 奥の細道 in 伊勢」が無事終了した。
予想していたよりも多くの人たちに来てもらえた。
それが本当によかった。


これは前々から思っていたのだけど、
ASA-CHANGは正しいなー」と思う。
その正しさは多くの人々を切ってしまう、
そういう鋭さを孕んだ正しさだ。
だから「適当に、なんとなく、楽しく生きていたい」
という現代の多くの人々にとっては、
敬遠されがちなイベント内容でもあると思うのだけど、
それでも勇気を持って、闘っている姿が、私は美しいと思って眺めている。


「こんなことではいかんだろう」という危機感。
そういう現代に対する思考力のある立派な大人の警鐘なのだ。


しかし悲しいかな、私たちは楽な方へ、気持ちがいい方へ流れてしまう。
その姿は、原発を建てるとたくさんのお金が降ってくるから建てることにした、
過疎化の進む地方の住民達の姿と重なる。
または、エネルギーが溢れる都会に移り住む若者の姿と重なる。
「可能性」とか「成長」とか「成功」とかを求めて彷徨っている。
我々は踏みとどまってそこに居る、同じ形を続ける、というのが難しい生き物だ。
流れる、流されて行く。
時代に、感情に、大きな力に、飲込まれて行く。
それは津波に流された家、人々の姿と重なる。
私たちは自然の流れには抗うことができないちっぽけな存在かもしれない。
それでも意識さえしっかり持てば、
流されずにあえて違う方向に進んで行くこともできる。
人間には本来そういうパワーも備わっている。
ASA-CHANGを見ているとそんな力強い景色も見えてくる。


今回のASA-CHANGのレクチャーで、
自分の不甲斐なさのようなものを発見した人がいるかもしれない。
身につまされる思いで聴いていた人もいたかもしれない。
最悪の場合「特に何も感じなかった人」もいたかもしれない。
そういう自分では気付かない「人間の嫌なところ」を、
ASA-CHANGは教えてくれる。
教えてもらって、きっちり眺め、家に帰って何かを深く思うことができるか、
それとも、そのまま、何も思い返すこと無く、いつもの日常を繰り返すか。
人間が原発の麻薬から解かれるか、解かれないかの分かれ目は、多分そのようなところにある。
我々は、気付いても見て見ぬ振りをしたり、そもそも見ようともしない。
目先の解りやすくて、気持ちがいいところだけをなぞって生きているだけである。
何もかもが鈍く緩く甘い。
それが現代の主流なのかもしれないけれど、
主流に流れていても永遠に正解には到達しない。
少なくとも私の中ではそういう決心がここにある。


それでも私は弱くてつまらない平凡な人間のひとりでもある。
弱くてつまらない平凡な人間のひとりとして、
私は私の美しいと思うことを探し求めて瞬間瞬間を見つめて形にしよう。
ASA-CHANGの言葉はそんな思いを私の心の中にもたらした。


世界は人間同士の関わり合いで出来ている。
素晴らしい関わり合いをもたらしてくれたカミサマとやらに、
私は珍しく感謝している。