最近号泣したこと

最近ふとしたことで泣く。
「こんなところで泣くんだ、自分」
と、自分に驚くことが多いのだけど、
例えば、最近では母親の昔話で泣いた。
これと言って、悲しい話しではない。
ただ母親が子供の頃の家の様子を突然滔々と語ってくるだけなのだけど、
それを聴いていると胸がいっぱいになって、
涙がぽろぽろ出た。


母親の母親の話し、
私からするとおばあちゃんの話しだ。
私が産まれたときにはすでに亡くなっていて一度も会ったことはない。
深い山間にある集落で宿を営み、牛や鶏を飼い、田んぼを持ち、野菜をつくりながら、
ずっと暮らしていたおばあちゃんは、
とにかく信心深く、季節の変わり目の行事に一生懸命になっていたそうで、
魔除けであるとか、豊作を祈願するであるとか、
そういった細々とした昔からあった日々の風習を大事にしていた。
山を恐れたり、天災を恐れたり、
とにかく昔の人たちは自然を恐れていた。
きのこや山菜を取りに山に踏み入ったときの恐ろしさ。
山で猿に遭遇すると、猿は激しく人間に威嚇する。
これ以上入ってくるなと怒っている。
そういう風景が当たり前の生活の様子を母は突然私に滔々と聴かせる。
すると私は涙が出てくるのだ。なぜか。


私はそういう生活を経験したことがない。
母親もそのような風習を守っている気配はない。
もはや古くさく、面倒なことだと思っている。
毎日テレビを眺めて暮らしている。
ただ、私は時々母親が思い出しついでに語るその話しを聴くと、
ありありとその情景が浮かんできて、
そこにあったであろう日々の暮らしの感覚が、
体中にリアルに喚起するのだ。
これは本当に血が覚えているんだなぁ、と思う。


テレビやパソコンが私たちの生活にもたらしたものは大きい。
ただ奪い去っていったものも同じぐらいに大きい。


「時代が変わってしまったんだよ」
と言ってしまえばそれまでだ。
ただ私は産まれてこのかたずっと、
心に大きな穴を抱えているような気がしているのだ。
大事な何かを失った世界にやってきてしまった、というような。
産まれてきた時代を間違えたのではないかという錯覚さえする。


私が欲しいものは、お金でもなく、物でもなく、愛でもなく、
日々を常に神秘なものとして捉え、
自分だけのささやかな輝きを見つけ出し、感謝する、
普通で当たり前で人間らしい暮らしなのではないかと思うのだ。


テレビもパソコンもない時代に、
昔の人が日々をおもしろおかしく暮らす為に考えついた風習に、
本当の「人間らしさ」が詰まっているんではないかと思う。
そしてそこには人間本来の力強さや、暖かさや、美しさがあるのだろうと思う。