春と修羅


春と修羅」というのは宮沢賢治の詩集なのだけど、
久しぶりに「序」を読んだらやっぱり素晴らしかった。
以下引用。


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)



この宮沢賢治の詩は、
なんとなくこの世の色々な雑多なことが徐々に積み重なってきて、
勝手に背負い込み、にっちもさっちも行かなくなり、
どんよりとした世界から、救い出してくれた気持ちになった。
人間の精神には「次元」というものがある。
ビリビリと感電できる「次元」。
わからない人にはわからないし、
わかる人にはわかる。
見えない人には見えないし、
見える人には見える。
そんな「次元」を私は漂いたい。


いつだってあちら側で遊んでいたい。
言葉もなく音もなく、
世界はなにも語らない。
優しいのか、冷たいのか、ただそこに居るだけ。
そういうものだけが本当に信用に足るものなんだろう。


人との出会いで、
際限のない欲望を刺激されたとしても、
それは私が望んだものではない。
私が観ているものを、誰かが観ていたとして、
それでもその人に成るわけではないし、
その人と共に人生を歩むわけでもない。
風景は風景としてそこにあるだけだ。


全くの「無」であること。
たとえ、つまらないものなのだとしても、
つまらないなりに、適当に、美しく、
命をまっとうしたいと、そう考えている。
それが世間の常識とズレていたとしても、
そこはもう堂々とズレていくべきなのである。
美しさとはそういうものである。


最低限の関わるべき人間と関わり、
シンプルな関係が築くことができたら、
私にはもうそれ以上の人との関わり合いは必要ない、
そう、はっきりと思っていて、
それは、変えよう無い事実である。