死にたいキモチ

吉本隆明氏の「真贋」を読んでから普通に、
「あー死にたいなー」と思うようになってしまった。
「震えるほど素晴らしい!」という感動と、
「死にたい」が一緒にやってくるすごい本だ。


ほんとに「どうやったら死ねるだろう」と思ってみるんだけど、
どの死に方も全然現実味がない。
というかやっぱりおそろしくて死ねない。
で結局「私が死んだら親の面倒みる人いなくなるし、
色々困るだろうし、親も絶望的な気分になるだろうし、
とりあえず親が死ぬまでは生きるかな」
という結論にわりかし早くに達する。
で、やっぱりこういう考え方とかを平気でしちゃう人は、
子供産んだら駄目だろうな、と思う。
こういう精神の不安定さというか、生に対する希薄さは、
子供が敏感に察知するだろうし、
訳の解らない子供が産まれそうだからだ。
そうなると将来、結婚する気もないし、子供産む資格もない。
女としての価値を丸ごと全部放棄するということだ。
そう腹を括るとものすごい開放感になる。
とりあえず親の面倒をみる為に産まれてきた。
あとは私のやりたいように考えるし、言う。
私以外の人間は他人だ。
私の宿命や因果には関係のない人々だ。
絡み合い新しい命が産まれる可能性はゼロだ。
そう考えると、言いにくいこともなんでも言える気がする。
結婚の可能性を放棄した女性はそういう自由さがある。
誰かに好かれることを計算しないというのは、こんなにも楽なことかと思う。


そうなると「なんとかして全部出し切りたいな」という欲望が出て来る。
誰も観てない景色を観たい。
私の超個人的な自慰行為によって「うわー」ってなりたい。
その事だけに専念したい。


言葉は慰めだ。
私が私を慰めることで、誰かが慰められることもある。
でも感覚の主役は私。
徹底的にやり切ったその先に行ってみようと思うのだ。