内的葛藤

「内的な葛藤に興味のない人……というか、
あまりそれを経験しないでもよい人生を送って来れた人たちは、
自分の自我を揺るがすような葛藤を怖れるがゆえに他者を批判して叩きつぶすことがよくある。
怖れから生まれる怒りという感情は、
とかく正義と結びつきやすい、人間の心の恐るべき影だ……。」


と、書いてあったのは、
久々に覗いてみた田口ランディさんブログ。
一連の瓦礫問題や原発問題に当てはめてみると、
なるほどなー、と思ったのだった。


世の中で起きる様々な社会的問題に対して、
人があーだこーだと意見を述べるとき、
ものすごく賢そうで偉そうな態度で述べる。
あの感じがすごく嫌で、私は閉口してしまう。
違和感が先に立ちなにも言えなくなる。
というか実際何も言えないのだ。
情けないかもしれないが、
ただ黙ってことが起こるのを見守っているという状態。


楽家達は音楽の性質上からも、
「人間にとって究極的に居心地のいい環境」というものを、
この世界にまず第一優先に求めているし、
こぞって「反原発脱原発」を訴える。
放射能に大量に汚染される可能性のある世界には住みたくない。
理由は至って単純。シンプルなものだ。
しかし日本には資源がない。
エネルギー源というものがないのだ。
エネルギーがないという事は他国の思い通りにされやすい。
外交上とても弱い立場に追いやられる。
楽家達がそういう政治的なことにまで踏み込んで考えているのかというと、
とても怪しい。
というか考えていないだろう。
「その辺りは政治家の領分であって我々が考えることではない」
というのが暗黙のルールのようなものだろう。
とはいえ日本が外交上弱い立場に追いやられるから原発はあったほうがいい、
という安易な考えもしづらい。
そこで「葛藤」が産まれる。


「葛藤」するにはエネルギーが要る。
いつもどこか居心地が悪いし、モヤモヤしてスッキリしない。
モヤモヤを持ち続けるというのは健康上にも悪そうだし、
はっきりしなくて、優柔不断な印象も受ける。
しかしこの「モヤモヤ」を手放してしまうと、
短絡的な結論しか産まれないし、
どうも世界が薄っぺらいものになってしまう気がしている。


そしてこの「葛藤」とうものは、一人一人の内部にも起きる。
人生の難しい「選択」を迫られるとき、私たちは度々「葛藤」する。
私が最近、心が不安定なのも「葛藤」を抱えているからだろう。


心には幾重もの層がある。
聖も俗も理性も本能も一緒くたにここにある。
私の高い次元のところではもうすでに色々なことが解っているし、納得している。
しかし、その理解と納得に、私の感情がついていけず、
「イヤだイヤだ」をする。
もう一つの次元では傷まみれになって、激しく怒っていて、怯えていて、
「グルルルル」と唸って、今にも誰かに噛み付いて攻撃しようとしている自分がいる。
その自分をなだめるのにものすごい労力を要する。
鎖が引きちぎれそうだ。
たくさんの感覚と感情が一気に吹き出していて大変な騒ぎである。


いくら「ああ、あれはこういうことで、こうで、
そうなるべき問題だったんだなぁ。」と納得したところで、
全く理解できず、傷の痛さを声高に訴え続ける自分が居る。
「こんなに痛くて、こんなに辛くて、こんなにイヤな気持ちだったんだよ!」と。
どちらもありのままの自分で、どっちかだけというのはない。
野犬のような自分をなだめる為に、こうやって文章を書いたり、
時々涙をながしてみたりする必要がある。
誰も傷つけない為に私はそうするしかない。


時間が解決する。
「お利口さん」な私は、「野良犬」みたない私と、
いつも対立して、葛藤している。
どちらの自分とも一生付き合っていかなくてはいけない。
いつか融和して解け合って、世界が安らかになればいいと思う。
大人になるってむずかしい。