祈りと呪い

伊勢神宮は祈る場であると同時に、呪いの場でもある。
日本の結界の要である。
やわらかな日の光を降り注ぎながら、
国を脅かそうとするものを封じている。
アマテラスオオミカミ
を崇め奉るのと同時に、呪い縛り付けている。
伊勢という地に。


そもそも祈りとは呪いとそれほど違わない。
私たちは日々祈りもし、呪いもする。
温和でお漏れ日のような美しい想念は、
いづれ、それと同じぐらいはっきりとした、
ドロドロとした暗黒の呪いに変わる。
生き物はただの器なのであって、
その中身は時と場合によってくるくると変化していく。


国家転覆を狙い、
今の社会を壊してしまいたいという人間はいくらでもいて、
そういう人間が集まり、何かを企てている。
今のところ音楽での活動が多いけれど、
音楽で世の中が動くほど感受性の優れた人間ばかりではない。
しかし、原発問題という、この国の悪しき習慣のようなものを、
攻撃しながら、政治的に関わっていこうという、
意識を持った人間は増えている。
国はそれが一番やっかいなのだろうと思う。
警察がクラブに介入するようになったのも、
そういった危機感からなのではないかと推測する。


オウム真理教が、音楽とは全然違う角度から、
集団で深い深い精神状態まで降りていき、
霞ヶ関サリンを撒いて国家転覆を企てたという点で、
見事集団意識を具現化した行為なのだと思う。
オウム事件は本質的には終わっていない。
新興宗教が出来る事はもうほとんど残っていないが、
結局のところ我々一人一人の強さだと思う。
けして誰も煽動せず、奉られることもなく、
物事の本質を見定め、選び、発言し、行動する。
世の中にはそういう人物が必要なのだと私は推測する。


芸人が売れるのは「馬鹿がおもちゃを発見した」のと同じだというが、
確かに「見て見て、こんなにおもしろいでしょ?」と、
子供がおもちゃを振りかざして惹き付ける行為と似ている。
彼らは人々の注目を一心に集め、人々の心と一緒にお金を奪う。
そんな風に人間の心を食べて生きている。


なにか重要な情報であったり、
とても美しいなにかであったり、
人々にとって魅力的なものを、
彼らはお金と引き換えに売りさばき渡り歩いている。


ぐっと惹き付けて「ぽわん」とした何かを渡す。
その行為をする為に生きている人たちが居る。


多くの人間の一因子として、
自分が持っている「才能」とやらを存分に発揮し、
人間は生きている。


そこに何の意味があるのか。


人間とはなんなのか。


世界はどうなっていくのか。


ただ黙って、寝ても覚めても
日々夢を見続けるしかないのだろう。