美しく呪う

去年の3.11から反とか脱とかの原発問題で、
あーだこーだとにわかに騒がしく、
ツイッターやらフェイスブックやらで、
みんなあーだこーだと言っていて、
「あーだこーだ」言ってんなー、
と、遠巻きで眺めていた。
いや、原発は無くしたほうがいい派なのだけど、
イマイチその流れにのるのは億劫で、
「あんまり危機感足りてないのかなぁ」
なんて思っていたのだけど、
そうではなく、どうもその騒ぎ方や活動の仕方が、
中途半端で乗り切れないということに気付いた。


で、思い出したのは、
石牟礼道子さんの「苦海浄土」。
震災直後にも思い出して、本を読んだ。
その中にあるこの一節。


「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、
上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。
上から順々に、42人死んでもらおう。奥さんがたにも。」


今後、もしも放射能で人間に被害が出た場合、
東電や国に対して、こういう凄みをきかせなくてはいけない。
「お前らも放射能を浴びて死んでみせろ」と。
そして何よりも方言であることの重要性だ。
昨年、芥川賞を受賞した田中慎弥さんの「共喰い」も、
力強い山口弁が印象的だった。
脈々と受け継がれてきた何か。
方言には先祖や、その土地で続けてきた営みの重みを、ダイレクトに感じる。
原発を再稼働させない為には、
放射能で一体どんな被害が出るのか、
というところを大々的に見せるというのが、
一番効果的のような気がする。
そして、「お前らは死ねるのか?」と東電や国に問う必要がある。


自然災害は仕方がない。
しかし原発は人間が創ったものだ。
人間がなんとかしなくてはいけない。
放射能でDNAをガタガタにされて、
産まれてくる子供が奇形児だったら、
一番嘆き悲しみ怒り狂うのは母親だろう。
そのとき、どんな怒りや苦しみに陥り、
母親たちがどんな形相で国や東電に臨むのか、ということだ。
結局、どんなに勘の冴えた人たちが事前にわーわー喚こうと、
ほとんどの人たちは自分の身に降り掛からなければ、
リアリティを持って、物事を考えることができないし、
感じることもできない。
人間とはそんな風にして、感覚の違いにより、
常に分断されている生き物なのだ。
なので滅ぶときは滅ぶ。
世界の終わりは日本から始まる。
以下、石牟礼道子さんの言葉。↓


おのれをよく見えないままに、粗末にしていることにも気づかずに、
生きてきたことを全部、そういう、自分の外側の常識の皮膚を引き剥がして、
全感覚で生まれてこなければならないような体験を、
いま、日本人はしていると思う。

いまある絆は本物かどうか、試されていると思う。
たくさんの人を愛せるか、ということじゃなくて、
たったひとりの人でもいいんですけど、

自分で点検しなきゃいけない、
そして出来ることがあれば、実行しなきゃいけない、
黙って。