土地の力

現代、ソーシャルネットワークというのがあり、
ネット上で、友人や、見知らぬ誰かと繋がり、
常時情報を公開する、というのが流行っている。
そして大抵、その記事に対して、当たり障りのないコメントを書いて、
とりとめのない自己満足や他者認識を得る、
という、よくよく考えてみると、なんだか気持ちの悪い事が、
日々行われているのだけども、
ある日、いつものように、
タイムライン上にながれる、つまらない記事を、
だらだらと読む、という、不毛な時間を過ごしていたところ、
ふと、とてつもない反発心を覚える記事に出会ってしまい、
何か堪えきれない、生理的で本能的、
ほとんど動物の自己防衛の如く、飛びかかってしまった。
それは第二次世界大戦中の、敵の艦隊に突っ込む日本の若き特攻隊員か、
9.11にニューヨークにそびえ立つ、
巨悪の根源とも思えるワールドトレードセンターに突っ込んだ、
過激派イスラム教徒による無差別テロを彷彿させるような、
そんな、無鉄砲さや一種の信仰心のようなものが漂っていた。
私はソーシャルネットワークから消えてることにした。
ソーシャルネットワーク上での自殺だ。
とある世界から消えたことで、なにかすっきりしたものがあった。
本当にこの世界から消えたら、もっとすっきりするのかな、と思ったりした。
でも、その反対にどうしようもない虚しさもあったのも事実で、
やっぱり本当の自殺はよくないかもしれない、という感覚が残った。
「死」について考えたとき、思い出すことがある。
私が好きな哲学者、エッセイスト(どちらも女性)は、
病気になったとき、「しめた!」と思ったというのだ。
やっと死ぬタイミングが巡って来たと。
その気持ちがリアルに私の中をぐるぐると旋回する。
そう考えると病院とは人間の死ぬタイミング失わせ、引き延ばす場所だ。
死を引き延ばし、死を不吉で恐ろしいものとみなし、
医者と看護士を養う為の治療費を捻出する場所。
私にはどうしてもそんな風にしか思えないあたり、
何かこの世とは相容れないものを抱えているとしか思えない。


珍しくテレビを点けて、ぼんやりと眺めていたところ、
「共喰い」で芥川賞を受賞した、田中慎弥さんが、
地元下関で取材を受けている映像が流れて来た。
田中さんは地元の地場産業が衰退していく中で、
「土地の力」を信じ、地元の話しを書き続けていきたいと言っていた。
小説の嘘の力を借りて、現実を越えていきたいと。
私が「共喰い」を読んで感じたことそのままだった。
受賞会見での「もらっといてやる」発言も、
1年以上前から考えていた事で、
それでぐっと世間の注目を集めて、多くの人に手にとってもらえる、
機会が増えれば、と言ってた。
そんな風にして、何かを愛する方法もあるんだなぁ、
と感心したのだった。
田中さんの小説はこれからも読んでみようと思った。
これからの時代に大切な何かが隠されているような気がするので。